世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.911

ケインズの慧眼と労働市場の未来

古川純子

(聖心女子大学 教授)

2017.09.11

 ケインズの目玉は,頭上高くについていたに違いない。Economic Possibilities for our Grandchildren(1930)(邦訳「孫たちの経済的可能性」)では,はるか遠く100年後のいまを予測していた。読まれた読者も多いことと思う。

 ケインズによると,経済の発展は資本蓄積と技術進歩がその主因である。複利計算によって資本蓄積は進み,技術革新は16世紀から,そして18世紀から徐々にクレッシェンドの度合いを強め,19世紀初頭からは怒涛のように発展した。技術進歩により人類は物質的に満たされて,100年後の世界では顕示的な消費を除いた必要性を満たす経済問題からは解放されているか,解決の見通しが立っている。貨幣を蓄えることは下品な行為とみなされ,金持ち礼賛の価値観は変容し,「今」を生きる人生の達人が尊敬される社会になるだろう。人類は労働から解放されるのだが,体に染み込んだ教えの慣性で,やらなくても良い労働をみなで広く薄く分かち合い1日3時間程度は働いて内なるアダムを満足させるだろう。経済はその存在を社会の基底に薄く沈め,経済学者は流行らない職業になり,人類は人生を享受するようになるかもしれない。しかしそれまでの間は,貪欲と高利貸しと用心が我々の神となる。汚いものが便利であり,清いものは役に立たない時代がしばらく続く。ただ,それも100年先までのことだ,と彼は言う。慧眼である。この見解は,キリスト教の千年王国の世界観と重なるものがある。ミレニアム,そうゴールデン・エイジの到来である。

 たしかにケインズがいう通り,資本蓄積は十分に進み,マイナス金利がつくほど資本主義は完熟に近づいている。産業革命以来の技術革新が訪れ,ICTの進歩は確実に経済と社会を変えつつある。その先にケインズの描く世界があるのかもしれない。しかし,そこにたどり着くまでに私たちは大きな変化を通過していくことになりそうだ。大きな社会的動乱を通じてではなく,この大転換を越えて行くためにいま何が必要だろうか。

 筆頭にあがる懸念は,技術進歩が労働生産性の向上と大量の失業をもたらし,現在すでに深刻化している所得・資産格差に拍車をかけることである。AI(artificial intelligence)は,現存する雇用の45%から75%を奪う。試算結果の数字には論者により開きがあるものの,その値は容認できる通常の失業率ではない。ホワイトカラーの事務職や営業・販売・サービス業の大半がAIに置き換えられる。さらに脅威なことに,機械に代替可能な高技能労働(たとえば会計士,レントゲン医師,プログラマー)に加え,モジュール化やオフショアリング可能な労働は,その仕事が高賃金なほど企業に労働を資本に置き換えるインセンティヴが強く働く。技術進歩の果実は,資本の論理のもとで平等に分配されはしない。無から有を作り出せるスキルと創造性のある「変人」か,どこで人がカネを落とすのかその心理を見抜ける「精神分析家」だけが新しい経済で付加価値を生み出すことができ,まともな所得を得ることができる(Robert B. Reich)。

 技術的失業により労働生産性は向上するのだから,なんら問題はないと経済学者はいう。しかしそれは,産業革命以降の機械化が,農村の過剰労働力を工業労働者に,技術的失業者をサービス労働者に転換してきたからにすぎない。知識社会への移行においてAIに代替されて失業する中低技能労働者の当面の受け皿が想像しにくい。中間層労働者に支払われる賃金が,資本主義システムの需要を形成していることは言うまでもない。需要不足問題は長期化の様相を呈することだろう。

 45から75%の労働者が失業する経済で,賃金は大幅に低下するはずだ。特別な才能がない者は,賃金が機械よりも安いときにだけ雇用される。たとえ高等教育を受けてもその先に良い就職が必ずしも約束されないとなれば,低所得者は大学進学を高額な無駄であるとみなすかもしれない。大量の失業者や大きな格差が自己防衛の工夫を生み出し,そのトレンドが,社会的緊張をはらみつつ新しい価値観を形成して行くのかもしれない。

 これはシナリオのひとつにすぎない。所得や教育格差を是正する再分配政策は可能であろう。累進課税の再強化やベーシックインカム,タックスヘイブン規制や法人税増税など,提案は多数ある。しかし勝者が制度を決めるこの世界で,どうやってこれを実現するのか。

 所得の格差は情動を生む。歴史を変えた情動は,しばしばこの格差から派生した怒りであった。いま世界に蔓延し始めている反知性主義に力を与えず,地球市民が技術革新で潤った世界にソフト・ランディングするために,勝者こそ分かち合いが自身のためであることを早めに悟った方がよい。そうすれば,彼らは間違いなく新しい時代のヒーローになる。

 ケインズが予測した「100年後」の2030年まで,あと13年である。資本主義が導く結末に,しばし思いをめぐらすのも良いことかもしれない。

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古川純子

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