世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3875
世界経済評論IMPACT No.3875

2025年韓国大統領選挙と北朝鮮

上澤宏之

(国際貿易投資研究所 客員研究員・亜細亜大学アジア研究所 特別研究員)

2025.06.16

 「韓国で起きた昨年の『12.3非常戒厳事態』により大統領が弾劾されてから2か月ぶりとなる6月3日,(韓国)大統領選挙が実施された。選挙では共に民主党候補である李在明(イ・ジェミョン)が第21代大統領に当選した」。

 これは北朝鮮メディアが6月5日,韓国大統領選挙の結果について報じた記事である。2024年12月3日に「非常戒厳」を宣布したことで弾劾(罷免)された尹錫悦(ユン・ソンニョル)前大統領の後任をめぐって,保守系前与党「国民の力」の金文洙(キム・ムンス)氏(前雇用労働部長官),革新系野党「共に民主党」の李在明氏(前党代表),中道保守系野党「改革新党」の李俊錫(イ・ジュンソク)氏(元党代表)らによる三つ巴の選挙戦は,李在明氏が次点の金文洙氏に得票率で8.27ポイントの差をつけて勝利した。

 文在寅(ムン・ジェイン)政権以来,約3年ぶりに革新政権が登場した韓国に対する北朝鮮側の受け止め方はどのようなものであろうか。本来であれば,自主外交と反保守の性向が強いとされる革新政権の発足は,米韓・日韓・日米韓の離間と弱体化を招来するとして歓迎すべきと思われるが,現在の北朝鮮にとっては複雑な胸中にあるといえよう。その理由について筆者なりに本稿を通じて解き明かしてみたい。

 北朝鮮の最高権力者である金正恩(キム・ジョンウン)総書記は,2023年12月末に開催した朝鮮労働党中央委員会第8期第9回全員会議で,韓国を指して「敵対的な二つの国家関係,戦争中にある交戦国関係」と強調した。続けて2024年1月に開催した最高人民会議第14期第10回会議の施政演説では「大韓民国を徹頭徹尾,第一の敵対国とし,不変の主敵」と位置付けたのに加え,「『同族,同質関係として北南(南北)関係』『わが民族同士』『平和統一』などの過去の時代の残余物を処理すべき」と主張した。これは北朝鮮が長年追求していた韓国との民族統一の放棄を事実上,表明したものであり,その理由として「一つの民族,一つの国家,二つの制度に基づく,わが祖国の統一路線(「高麗民主連邦共和国」創設案)と明確に相反する『吸収統一』『体制統一』を国策とする大韓民国とはいつまで経っても統一は実現しない」ことなどを挙げた。その上で,金総書記は上記全員会議で「(韓国で)政権が十数回交代したが,『自由民主主義体制下での統一』の基調は何の変化もなくそのまま続いてきた」「我々の体制と政権を崩壊させるという傀らい(韓国)の凶悪な野望は『民主』を標榜しても,『保守』の仮面を被っても少しも異なるものがなかった」と述べるなど,韓国の革新勢力との決別も明らかにした。

 こうした金総書記による韓国との決別宣言の背景には何があるのか整理してみたい。第一は,韓国との体制間格差の拡大が挙げられる。韓国政府系機関の推定によると,2023年の北朝鮮の国内総生産(実質GDP)は韓国の約70分の1,1人あたりの国民総所得(GNI)は約30分の1,貿易総額は約460分の1の規模であることが判明している。韓国に圧倒的な経済格差を付けられた北朝鮮にとっては,南北統一が(韓国主導による)吸収統一でしかあり得ないことが自明の理であったことはいうまでもない。つまり,韓国が革新政権であろうとなかろうと,経済大国と化した韓国自体を脅威と認識しているのである。

 そして第二は,西側文化・思想の流入による体制への影響が指摘される。金総書記による唯一独裁体制を敷いている北朝鮮にとっての大きな懸念が韓国を始めとした西側の文化コンテンツの国内流入である。西側の自由かつ民主主義的な思想や風潮,文化は北朝鮮の独裁体制と真っ向から対立するため,北朝鮮当局はその動向を最大限警戒している。それゆえ,北朝鮮当局は市民革命により体制が転覆したカラー革命の発生などを未然に防ぐため,2020年に外国文化の流入・拡散を禁ずる「反動思想文化排撃法」を制定したのに続き,2021年に若年・青年層の思想改造を促す「青年教養保障法」を定めた。さらに,2023年には韓国語的表現の使用・拡散を禁ずる「平壌文化語保護法」を採択した。これら法律は青年教養保障法を除けば,最高刑を死刑と規定していることから体制側の強い危機感がうかがえる。

 かつての軍事政権や権威主義体制,開発独裁時代の韓国であれば,北朝鮮は民主化闘争の美名の下,韓国民主勢力と統一戦線を構築して韓国政治に積極的に介入してきたが,韓国における民主的政治体制の定着や社会の成熟化に伴い,韓国社会の包摂(革命化)に限界を感じていたのは想像に難くない。言い換えれば,急速に民主化と経済発展を成し遂げた韓国に対して,北朝鮮は自らの国家再統一に向けた正統性と尊厳を喪失していったのである。今回の大統領選挙の発端となった尹錫悦前大統領による「非常戒厳」の宣布をめぐっても,その後,韓国が民主的なプロセスの中で大統領を弾劾し,政権交代を実現させたことは北朝鮮にとって衝撃であったことは否めない。「非常戒厳」宣布前までは国営メディアを通じて尹大統領を頻繁に非難してきたものの,戒厳解除を契機に対韓関係について一切報じなくなったことからも北朝鮮の複雑な心中が読み取れる。

 他方,1980年代の軍事政権下で民主化運動を繰り広げた「運動圏」と呼ばれる当時の大学生世代がアラ還を迎え,民主化闘争を知らない世代が韓国社会の主流を形成している現在,韓国では民族主義的な対北朝鮮認識が希薄化しつつあるといえる。すなわち,権威主義体制に対するアンチテーゼとしての北朝鮮の存在価値が大きく崩れてきているのである。現在の韓国の革新勢力は北朝鮮の核開発や人権状況に沈黙しているものの,民主主義や人権といった普遍的な価値観を重視する傾向にあることから,北朝鮮としては,いずれ自らに矛先が向けられることは火を見るより明らかだと判断しているものとみられる。

 金大中政権(1998〜2003年)時に始まった韓国と北朝鮮の交流は,紆余曲折ありながらも,その後の保革両政権下でも続いてきたが,昨年の北朝鮮による統一政策の転換以降は南北間の接触が完全に途絶えてしまった。今年3月に北朝鮮住民2人が木造船に乗って日本海側の北方限界線(NLL)を越えて漂流しているところを韓国軍が救助したものの,南北朝鮮間に連絡手段がなく,現在に至るまで北朝鮮への送還が実現していない。また,最近に入って北朝鮮は韓国に対して用いてきた「傀らい」という用語まで使用しなくなるなど韓国を相対化,矮小化する動きを強めている。

 北朝鮮は韓国大統領選挙の結果を伝えた6月5日付けの『労働新聞』(党機関紙)に「西側民主主義の脆弱性を暴露する」と題する長文の解説記事を掲載した。内容は西側諸国の多党制民主主義に対して「ブルジョア独裁の反動性,資本主義社会の反人民的な本質を隠す看板に過ぎない」「繰り返される政権交代が国家政治を混乱に陥れ,政府の政策施行を制約する主な要因となっている」と指摘した上で,「広範囲な勤労大衆」の政治への参加が妨げられていると批判するものである。同記事からは韓国大統領選挙を通じた民主主義への憧憬を排除したいとする北朝鮮当局の思わくが透けて見えてくるが,その根底には前述したように韓国が高度な民主主義国家へと発展したことを脅威と捉えていることがある。

 韓国大統領選挙の翌日である6月4日,就任式に臨んだ李在明大統領は演説で「北朝鮮との意思疎通の窓を開き,対話と協力を通じて朝鮮半島の平和を構築する」と強調した。一方,その同じ日にロシア安全保障会議のセルゲイ・ショイグ書記が北朝鮮を訪れ,金総書記と会談した。双方は会談で「特殊かつ堅固な包括的戦略パートナーシップを更に強固に発展させ,共同の中核利益を守護するための一連の重要な問題,各分野における相互協力事項」(6月5日付け「朝鮮中央通信」)などについて話し合った。会談日のセッティングをめぐって露朝が韓国の政権交代をどこまで意識していたのか判然としないが,北朝鮮にとってロシア重視の対外方針を改めて内外に印象づけたかたちとなった。その上で,北朝鮮は金総書記とショイグ書記との会談を伝える5日付け『労働新聞』の同じ1面に「国家経済の成長発展に向けた闘争に拍車をかける」と題する記事を一緒に掲載した。増産運動に取り組む各生産単位(組織)の成果を伝える内容で,自らが進める「自力更生」路線の正当性を強調している。

 末筆ながら本稿をまとめれば,韓国大統領選挙に対する金総書記の胸中はこの1面に全て凝縮されているのではないかと筆者個人は受け止めている。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3875.html)

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