世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1061
世界経済評論IMPACT No.1061

陳情と政策提言の大いなる違い:WTO,TPPを通じての実感と教訓

金原主幸

(国際貿易投資研究所 客員研究員)

2018.04.23

 米国トランプ政権下の通商政策は,今や自由貿易派(国際派)がほぼ駆逐され保護主義派(強硬派)が牛耳りつつあるようだが,両派の対立は理念や信念のぶつかり合いといった観がある。翻って日本の場合はどうか。これまで政権内の大臣どうしがそのような形で対立したという話はあまり聞いたことがない。なぜだろうか。日本の通商政策は政治家ではなく官僚主導だったことがひとつ大きな理由だろうが,本稿ではそれとは別の問題に焦点を当ててみたい。それは陳情と政策提言の違いという視点である。

 筆者が民間の立場から長年にわたりWTOドーハラウンドやTPPの推進に携わったなかで,痛感させられたことのひとつは,日本では陳情によってのみ動くよう動機づけられた政治家(国会議員)が如何に多いかということだった。広辞苑を引くと“陳情”とは「実情を述べて,公的機関に善処を要請すること」とある。通商の世界では,農業が典型である。「自由化を阻止してくれ」,「対策費をつけてくれ」となる。

 これに対して,経団連はじめ経済界がドーハラウンドの早期妥結やTPP参加を強く主張し,政府に働きかけてきたのは決して陳情ではなく政策提言であった。政策提言とは,特定の業界やグループの利益確保ではなく,日本の経済社会全体の利益に資するための働きかけである。貿易投資の自由化は産業構造の転換を促し日本経済全体の競争力強化に繋がるが,特定の業界や企業を利するものではない。例えば,TPP実現を戦略的に活用できた企業のみが勝者となれるのであって,あらかじめ勝者と敗者が決まっているわけではない。したがってTPP推進のための陳情などありえないのだが,陳情に慣れている政治家にはそのことが理解できない。陳情と政策提言の区別がつかないのだ。筆者が体験したエピソード的な実例を3つ紹介したい。

 ひとつはドーハラウンドがまだ動いていた頃の話。しばらく停滞していた交渉が再度動く見通しとなり,急遽ジュネーブで閣僚会合が開催されることとなった。当然,日本からは農水,経産両大臣が参加する。その時,経産省幹部から電話が鳴った。大臣がひどく不機嫌らしい。理由は自分が交渉推進のためにこれから海外出張するというのに経済界代表が誰も挨拶に(頭を下げに)来ないからだという。結局,その電話で然るべき財界人による大臣訪問アレンジの要請を受けることとなった。他方,農水大臣のほうには,交渉妥結阻止のため農業関係者による陳情団が大挙して訪れていたに違いない。自民党内の有力政治家としてこれまで膨大な陳情を処理してきた経産大臣は,おそらく経済団体の政策提言など読んだことはなく,WTO交渉は企業のためなのだから経済界が陳情に来るのが当然と思い込んでいたのだろう。そこに国益全体への視点はない。

 ふたつ目は,民主党政権時代の話。当時はTPP交渉に参加すべきか否かをめぐり国論が二分されており,民主党政権は決断できずに右往左往していた。筆者は上司とともにTPP問題担当の副大臣に何度も呼び出された。副大臣曰く「農水省は俺のところに来て『TPPに入ると大変なことになります。日本の農業が壊滅します』と言う。次の日には経産省が来て『TPPに入れないと日本だけ取り残されます。早く交渉に参加しないと大変です』と言う。政府としてどうするか決めないといけないのだが,個人的にはTPPに参加すべきだと思うので,そのメリットを具体的に金額で示してくれ」。副大臣訪問のたびにTPPの戦略的意義についてできる限り具体的に説明したつもりだったが,結局,最後まで納得頂けなかった。

 副大臣は,TPP参加で日本企業全体でいくら儲かるのかを示して欲しかったようだ。TPPによるGDP押上げ効果についてのマクロ経済分析は可能でも個々の企業利益のミクロ的積み上げなど計算できるはずもない。だが,陳情に長けた向きはTPP参加による農業部門への打撃を8兆円(?)との算出根拠の怪しげな数字を打ち出していたため,副大臣としては経済界側からそれに見合う金額を期待したのだ。陳情には陳情で応じてくれ,さもないと政府としてTPP交渉参加に踏み切れない,というメッセージだと感じた。「農業からの風圧(陳情)はもの凄い」が副大臣の口癖だった。

 3つ目は,民主党政権末期の頃の話。次の総選挙で自民党の政権復帰がほぼ確実視されていたため,自民党の当選1,2回の若手議員を中心に個別にアポをとり,TPP参加への支持要請に回った。まず驚いたのは,ほぼ全ての議員が筆者のような面識もない民間団体の事務方の訪問を喜んでくれたことだ。TPP問題で経済界関係者の訪問を受けるのは初めてだと言う議員が多く,経団連では政策提言のたびに政府のみならず自民党にも毎回,建議している旨説明すると,「いや,自分のところへの訪問や陳情はなかった。なぜもっと早く来なかったのか」と揶揄のようなお叱りを受けた。因みに「俺はTPPは重要だと思っているが,民主党政権では交渉できない。だから,今はTPP参加に反対している」との意味不明な言葉も何度か頂いた。

 米国においては,連邦議員は日々,様々な利益団体からロビーイングを受けている。米国のロビー活動は合法で透明性があり,陳情という言葉のような官尊民卑の響きはないが,本質的には似たようなものかもしれない。だが,米国の通商政策には,単なるロビーイングの積み上げだけではない理念や信念のような部分がリーダー層の言動から感じ取れることがある。それは米国を代表して国益を担う政治エリートとして,時に傲慢なまでの矜持なのか。

 日本の政治家が,陣笠のみならず重要政策を左右する有力議員まで陳情の蓄積で動くとしたら,国民にとって不幸なことだ。とりわけ陳情には馴染まない自由貿易の推進には,国家百年の計の決断が求められる。民主党政権時の野田総理が個人的にはTPPの意義を理解していたにもかかわらず,最後まで交渉参加を決断できなかったのに対して,自民党政権となって安倍総理が迅速に決断できたのはなぜか。それは,野田総理にはなくて安倍総理には備わっていたもの,すなわち,各方面からの猛烈な陳情の圧力を押し返すだけの強い政治リーダーシップと,それを支える安定した強固な政治権力基盤である。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1061.html)

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