世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3927
世界経済評論IMPACT No.3927

日米関税交渉合意とコメ問題:ミニマムアクセス堅持は国益なのか

金原主幸

(KKアソシエイツ 代表)

2025.08.04

 参院選の終了を待っていたかのように,その数日後には日米交渉の合意が大々的に発表された。石破総理は精一杯成果を誇示し,交渉担当だった閣僚は有頂天だったが,その直後にホワイトハウスが合意概要を発表すると日本政府の説明との大幅な食い違いが明らかになった。これまでの長年にわたる日米通商交渉の歴史において国内向け説明が米側の発表内容と異なることはしばしばあったが,やはり今回はいろいろな意味で異例である。大統領自らが公式発表の前に矢継ぎ早にSNSで発信したが,現時点では何が本当に合意されたのかさえ判然としない。とりあえず自動車の関税が25%から15%に引下げられたことは最悪の事態だけは回避できたという意味で一応の成果だったが,全貌が明らかになっていない現時点では包括的な評価は難しい。

 ただし,これまで幾多の日米貿易交渉,WTOドーハラウンド,そしてTPP交渉等の裏舞台に部分的ながら民間の立場から関与してきた著者には,極めて残念な交渉結果だったと指摘したい分野がある。それはコメのミニマムアクセス(以下,MA)が事実上,手付かずに終わったことである。毀誉褒貶が激しく経済合理性を無視したトランプ大統領の言動には殆ど正当性がないが,「日本はコメ不足なのに輸入しない」との発言だけは別である。実際の交渉の内幕は知る由もないが,おそらくトランプ大統領にとってコメはディール全体の中でさほど優先順位の高い分野ではなかったので,日本側の提案(MAの現行枠77tのなかで他国からの輸入分を減らすことで米国からの輸入を増やす)を飲んだのであろう。もしトランプ大統領がもっとコメに拘り強硬な輸入拡大要求をガンガン叩きつけてくれていれば,“ガイアツ”によりMA廃止を含む日本のコメ農業の抜本的な構造改革への端緒になったのではないだろうか。本来は米国からの外圧に頼るなど情けないことなのだが,自主的な改革への着手を阻む国内要因はあまりに強固なので致し方なく淡い期待があった。

 そこで本稿では,日本のコメ農業の改革のあり方そのものではなく,改革への転換を阻む岩盤のような国内要因について指摘してみたい。もとより著者は農業政策については門外漢だが,多くの通商交渉の現場を観察してきた経験から少なくも以下の3点が最も深刻だと考えている。

農業団体の政治的影響力

 第1は,農業と政治の関係である。10数年前,著者は某外資系金融機関主催による大口顧客のみを対象としたTPPについての小規模なシンポジウムに石破議員(現総理,当時は自民党が下野中だったので野党議員)とともにパネリストとして登壇した。GDPの1%程度の農業部門がこれほど絶大な政治的影響力を行使しているのは健全な民主主義とは言い難いのではないかとの著者の発言に対し,石破氏は自分は初当選以来の農水族だと断ったうえで「たしかに農業団体の影響力はかつてよりは落ちているが,5,000票くらいはある候補者から別の候補者に動かすぐらいの力はまだ残っている。この行って来いで1万票の差は,小選挙区制の下では接戦の候補者にとって当落を左右することになる」といった趣旨の発言だった。反論というより解説に近かったが,妙に腑に落ちたことを記憶している。だから政治家は迂闊にTPP参加推進,農業市場開放などとは口にできないという意味だと理解した。

 本来,農業の競争力強化に向けた構造改革の中核を担うべきは専業農家のはずだが,総農家数の9割以上は農業収入以外がメインの第二種兼業農家である。そしてJAを頂点とする全国各地の農業団体のステークホルダーは第二種兼業農家である。彼らの多くは,農業の生産よりも所有する農地所有の維持に関心があるため改革を嫌い現状維持志向が強い。通商交渉のたびに永田町では,コメを筆頭とする所謂農産物重要5品目(コメ,麦,牛・豚肉,乳製品,砂糖原料)を「国益」の名の下に死守(輸入拡大阻止)すべしとの大合唱だが,ここで「重要」とは政治的にセンシティブ(選挙の票に響く)という意味であり,真の国益とは何ら関係がない。永田町では「国益」とは農業団体益を指す。

消費者不在の農政

 第2は,政治家も農水省も専ら供給者側(生産,流通,販売,農業団体等)の立場と利益しか念頭にないことである。あくまで供給者ファーストの農政なのだ。それが端無くも露呈したのが,今回の日米交渉合意直後の石破総理と小泉農水相の相次ぐ発言だった。「守るべきは守った(石破総理)」,「総量としてとしてコメの輸入が拡大されることはない。(MAの枠内から)主食米に回ることもない(小泉大臣)」。こうした発言を聞いて違和感を持ったのは著者だけだろうか。いずれもNHKのTV番組でのオンレコ報道で流れた発言なので一般国民向けのメッセージのはずだが,著者にはコメ農業関係筋への「君たちの既得権益は守ったから安心しろ」とのメッセージとしか受け取れなかった。この石破総理の「守るべきは守る」というセリフも上述の「国益」と同様に永田町独特の常套句であり,重要5品目の輸入拡大阻止と同義語である。

 小泉大臣の発言はコメ農業関係者を安堵させることに汲々とするあまり,より露骨なメッセージだった。コメ価格が2倍以上に急騰し厳しい経済生活を強いられている多くの国民の耳には「(比較的安価で日本人にも人気の)アメリカのコメなど輸入しないので,引き続き割高な国内米で我慢しなさい」としか聞こえなかっただろう。

グローバル市場からの隔絶

 第3は,歪なコメ貿易政策である。世界全体のコメ生産量は年間5億tあり,生産量が1,000t程度の日本は生産量ではトップ10にも顔を出さない。5億tのうちジャポニカ米は20%(インディカ米が80%)だがそれでも1億tになる。日本のコメはこのグローバル市場から殆ど隔絶されていると言ってよい。因みに,日本とほぼ同じレベルの生産量のアメリカはその半分近くを輸出している。

 農水省では2030年までにコメ輸出を2024年の8倍(35万t)に増やす目標を掲げているらしい。世界的な日本食ブームのなか,コメに限らず農産品の輸出振興は遅きに逸したとはいえ大いに推進すべきだが,他方でコメ輸入については相変わらずMA以外は事実上の輸入禁止に近い高関税(341円/kg)のままだ。この先の数年間に今回のようなコメ価格高騰や供給不足が生じた場合はどうするのだろうか。いかなる財であろうと,市場メカニズムに基づき国内生産に余剰があれば輸出され不足ならば輸入されるのが開かれた国際経済社会の常識である。コメだけ例外とする合理的理由はもはや見出せない。農水省による閉鎖的で計画経済的なコメの需給調整など持続可能であるはずがない。

 農政には様々な方面の利害関係が奥深く絡まっており,その制度・規制は複雑極まりなく部外者にはそう簡単に掌握できるものではない。紙幅の都合上,農政のあるべき姿の議論は別の機会としたいが,最後にかつて通商政策担当の経団連副会長としてWTOドーハラウンド,日豪EPA,TPP等の数々の通商交渉の推進に財界を代表して尽力された某大手総合商社の会長が,4年間の任期終えた際にしみじみと著者に語った以下の言葉を紹介して本稿を閉めたい。「我々が守るべきは農業であって農業団体ではないということをこの4年間でよく悟ったよ」。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3927.html)

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