世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
歴史にifはない?!
(杏林大学総合政策学部 教授)
2024.11.25
そもそもこの言葉の出どころはどこの誰なのだろう? 一説では,歴史家のE・H・カー(1892-1982)が講演で,歴史におけるifを「サロンの余興」と揶揄したことが伝えられているが,その根拠となるとさらにおぼつかない。しかしそれ以上に不思議なのは,この出どころも根拠も不明確な箴言もどきを,少なからぬ人々が当然のように受け入れていることである。そして,みずからの言説の頭に「歴史にifはないと言われるが,……」と,まるで時候の挨拶のように加えて平然としていることである。
経済学を含め,とりわけ社会科学において,歴史の果たす役割は計り知れない。多くの自然科学にとってはそうではないかもしれない。物体の落下法則も光の速度も,古代から今に至るまで変わることはないだろう。しかし社会現象はそうではないのである。社会科学にとっての歴史は,実験室における制御された実験の不完全な代替品であり,かつ数少ない代替品なのである。したがってその根拠も明らかにせずに,この箴言もどきを濫用するのは,思考停止の極みと言わねばならない。
「歴史にifはない」という命題に,もし理由があるとすれば,考えられるのは,以下の二つであろう。
- (1)歴史はすでに確定した過去なのだから,それについてifを論ずることは無意味である。
- (2)歴史はつねに必然的な因果関係に支配されており,ifの入り込む余地はない。
まず,(1)の「すでに確定した」という認識は,多くの人がそう思うほどに自明なことではない。歴史の資料がしばしば人によって記されたものであり,さまざまなバイアスや不正確性を含んでいることを忘れている。観察者,記録者が残した,その正確性の不確かな事実を,現代のわれわれがさらに観察することで歴史は紡がれるし,他に方法はない。そこに絶対的事実が存在していたに違いないと感じるのは素朴な実在論であり,われわれの認識のクセのようなものである。しかし,その絶対的事実とやらには,未来永劫出会うことはないのである。そうであれば,それはわれわれの認識にとって無縁なものであり,ないも同然である。
したがって歴史(history)は,とにかく残されたさまざまな資料に基づく,整合性のある物語(story)以上のものであることはできない。それはその時代の観察者の主観的認識に依存しているのであって,どのような意味においても確定していない。
(2)の考え方は,いわゆるマルクス主義や歴史学派に見られる発展段階説のように,歴史の展開を必然的因果関係に基づくものとみなすものである。それを解読するのが歴史家の使命であると自負する者にとって,ifを論ずることは,まさに「余興」だと言いたくもなるのであろう。
しかし歴史の必然性を強調する考え方は,それに基づいて未来の不可避性をも論ずることになり,しばしば,全体主義やファシズムの萌芽となってきた。そして発展段階説に基づく未来予測は,しばしば大外れしている責任はどこかでとらねばならない。すべてを必然と考えることは,すべてを偶然と考えるのと同じ程に錯誤である。
しかも人間は,そもそも偶然が嫌いであり,どのようなものにも因果関係を見出そうとする認識的バイアスをもつことが,今日の行動経済学で明らかにされている。雷鳴のメカニズムがわからなかった人々は,それを太鼓を叩く鬼に擬人化してまで,そこに因果関係を設定せずにはいられなかった。億万長者になったひとは,努力したからであり,夢破れたひとは努力が足りなかった……すべてには原因と結果があるというわけである。
しかし本来,科学の命題は決定論ではなく,しばしば統計的である。私は,歴史はもちろん,世の中の事象においても,偶然の果たす役割は想像以上に大きいと考えている。ヒトラーやスターリンが20世紀における歴史の展開に非常に大きな役割を果たしたことは,多くの人がそれを認めるであろう。しかし彼らとて,約二分の一の確率で女性に生まれ,一家庭の主婦として生涯を終えたかもしれない可能性をどう考えるだろうか。
これに対して歴史必然主義者は言うであろう。いや,もしヒトラーやスターリンが生まれなければ,また別の誰かが同じ役割を演じたはずなのだ。おっと,待った! 今なんて言った?「もし,ヒトラーやスターリンが……」そう,まさに歴史において,必然を強調するにせよ,偶然を強調するにせよ,そこから何かしらの認識を得ようとすれば,レトリックとしてさえ,ifが必要になるのだ。
経済学が機械論的物理学を真似るようになって久しいが,それが現実との関連性を回復するには,歴史的認識が不可欠である。そして歴史からなにかを学ぼうとするのであれば,またそれを未来に反映させようとするのであれば,歴史におけるifはなくてはならないものである。
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