世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
片手の経済学者の勝利
(杏林大学総合政策学部 教授)
2026.02.23
かつてアメリカのトルーマン大統領が「片手の経済学者」を所望した話はよく知られている。経済政策の立案について意見を求めても,話が終わったと思いきや,必ず,「他方において(on the other hand)・・・」と,もう一本の手が出てくる。両論併記にうんざりしたというわけだ。
片手の経済学者を求めたのは,何もアメリカ大統領だけではない。多くの人々がそうであるだけでなく,経済学者もまたそうだったのだ。さまざまな経済論争や対立する学説のなかで,勝ち残って今日の主流派を形成する経済学は,疑いもなく「片手の経済学」である。そしてその「片手の経済学」の元祖といえば,なんといってもリカード(David Ricardo,1772−1823)であろう。今日の数学的定式化にも十分耐える彼の経済理論は,何よりシンプルであり,論理的であり,決定論的である。その法則性への言及は,まるで古典物理学のようであり,そこには,歴史も制度もない。もう1本の手の出る幕はない。
それに対して,彼の論敵であったマルサス(Thomas Robert Malthus,1766−1834)や,貨幣・信用論争において対立する側に立ったトゥーク(Thomas Tooke, 1774−1858)は,冗長なほどに叙述的であり,歯切れが悪いが,そこにはさまざまな豊かな知見が含まれていた。ケインズ(John Maynard Keynes, 1883−1946)は,もしかりにリカードではなくマルサスが,19世紀の経済学の出発点であったならば,今日世界ははるかに賢明で豊かな場所になっていたであろう,と嘆いたものだが,貨幣・信用の分野におけるトゥークについても,同じことが言えると思う。
いずれにしても,勝ち残ったのは,「供給はそれ自らの需要を生み出す」であり,「貨幣の量が増えれば,物価が上昇する」である。シンプルで明快であることこの上ない。断定的,決定論的であり,欠点はたった一つしかない。それは,現実はその通りにはなっていないことだ。
世界で最も普及しているマクロ経済学の教科書であるマンキューの本では,貨幣供給量の増加がインフレを生じさせることは,「経済学の十大原理」の一つ(第九原理)とされている。日本の中央銀行は,10年以上にわたって「異次元の」金融緩和を行なったが,物価を2%上昇させることはできなかった。そうではあっても,もう1本の手が登場することはないのだろう。だって,そんな教科書はまず売れないもん。ちなみに,この点に関する私の「もう1本の手」は,かつてこのコラムで論じたことがあるので,参照されたい(2025年2月24日,No.3736)。
誰しもがシンプルで,明快で,普遍性をもった一般論を求めたがる。認知心理学では,人が複雑な現象を単純な概念や関係に置き換えて理解することを「ヒューリスティックス」という。アダム・スミス(Adam Smith,1723−1790)のそこそこ分厚い『国富論』は,「見えざる手」というフレーズで,ベートーヴェンの長い第9交響曲は,「歓喜の歌」のメロディーで置き換えられる。そこにはそれ以外に何本もの手があることは無視されるのである。
もう1本の手が,多くの人々にとって邪魔なのは,認知容易性に反するからであろう。これも認知心理学の実験結果として,人は認知が容易である時に,真実だと錯覚し,心地よく感じ,警戒を解く傾向があると言われる。そもそも「理解した!」というのは,目の前の情報の間に筋の通った物語ができた時であり,そうであるなら目の前の情報は少ないほどよい。そして人は「理解した!」途端に,思考が停止するのだそうである。そこにもう1本の手など,迷惑以外の何物でもあるまい。
古典物理学には,三つの苦手分野がある。超高速の世界,超ミクロの世界,そして摩擦と抵抗に満ちた世界(地球)だ。第三番目の世界に関わる経済学は,それでも古典物理学に憧れた。しかし,普通の物理学者は,地球上で,ビルの屋上からパチンコ玉と鳥の羽を落としても,同時に着地することはないことを知っている。経済学者だけが,そのような単純化が現実を描写していると言い張る。
選挙ともなれば,単純で短いキャッチフレーズやらスローガンがやたらと飛び交うものだ。人々はそれらを思いのままにつなぎ合わせて,筋の通った物語を作り上げ,「うん,わかった!」と言って思考を停止する。できることならそんな時,人々が思考停止した頃合いを見計らって,「いや,でも他方において(on the other hand)・・・」などと言っては,人々に疎んじられるのは,学者冥利に尽きるではないか。トルーマンの側近の経済学者は,健全な学者であったに違いない。
ソウイウモノニワタシハナリタイ。
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