世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
ヘリコプター・マネーはやってくるか
(帝京大学 元教授)
2021.05.31
開放経済下の変動相場制のもとで有効とされるのは金融政策であるが,先進国,とりわけ欧州では「長期停滞」から脱出できないまま出口戦略も迷走を続けてきた。異次元の量的緩和やマイナス金利政策だけでなくデジタル通貨やヘリコプター・マネーあるいはベーシック・インカムを導入する声が上がっている。ヘリコプター・マネーはデフレの恐怖に対抗するために究極的な金融緩和策としてフリードマンや,バーナンキなどが安倍内閣の時,日本などに提唱した経緯もある。1969年ノーベル経済学賞を受賞した米国の経済学者ミルトン・フリードマンが提案したヘリコプター・マネーは文字通りまるで「ヘリコプターからマネー(お金・現金)をばらまく」ように中央銀行や政府が国民に対して無条件に(制限条件の対価無く)現金を給付する経済政策を意味する。ヘリコプターから貨幣をばらまくように供給するので中銀のバランシートには資金調達として負債欄に見合う資産の欄にはその増加が計上されないので,中央銀行の財務諸表では債務超過という問題が発生する。あるいは政府が無利子で無期限の国債を発行,これを中銀が買い取って国民に一律支給する長期国債の買切りオペによって満期の元本償還分以外は中央銀行の負債欄に貨幣増,資産欄に長期国債増が計上されるが,それもヘリコプター・マネー類似の効果を持つ実際のオペレーションであると京都大教授・斎藤誠は言う。長期停滞に陥った欧州経済ではヘリコプター・ドロップとも英語表現されるこの金融政策に関心が高くなっている気がする。
欧州ではフランス中銀総裁ビルルワ・ド・ガロ(Villeroy de Galhaut)が19年秋来日し早稲田大学大隈講堂の講演で厳しいデフレと闘うためには「ヘリコプター・マネーを想像することは可能である」と導入をほのめかした。イタリアの前ECB総裁ドラギ首相やフィナンシャル・タイムス・チーフ・エコノミストのマーチン・ウォルフなどもこのアイディアに関心を示すようになってきた。しかし保守的なドイツ連銀総裁バイトマン(Jens Weidmann)は今回のEUグリーン・リカバリー基金によるグリーンボンドEU債券を市場売買で特別扱いしないと表明してヘリコプター・マネー的発想に反対の立場である。また,ハイパーインフレにつながるリスクがあるとするドイツ連銀や野村総研リチャード・クー,インド中銀元総裁ラジャンなどは実行性を欠くと批判する。現実には日本の20年の一時給付金,米国バイデン政権の大型救済予算における納税者向け1400ドル/人給付金などなどで部分的に日の目を見ているとするエコノミストも少なくない。英国のベバリッジ方式の最低限度所得を交付する社会保障制度はスイス,オランダ,カナダ,フィンランドなど北欧諸国などでも実施されているが,基礎的生活費の通年化などのベーシック・インカム(BI)導入につなげるには既存の社会保障や基礎年金との整理統合や国民の資産所得等の公平性の把握が先決である。
コロナ危機によって雇用と所得を奪われた人は欧州でも数百万になる。ECB(欧州中央銀行)の金融政策はこの危機に対し一般市民よりも企業救済を優先し過ぎていると批判されている。この点に関しECBからのEU市民への直接的な現金の移転となるヘリコプター・マネーこそがひとびとを救済し,ポストコロナ危機のBBB(より良い復興build better back)に繋げることになるとする意見が出始めている。このように主張するのはブラッセルの国際金融専門家フィリッポナである。現在,ECBはほとんど無条件に市中銀行と企業に資金を流し込んでいる。これではすでに中間階層の没落と言わる位,格差拡大苦しむ国民階層の困窮をさらに助長するだけである。資本市場に資金を流す代わりに,返済義務のない資金を一方的に国民に移転しなければならないときである。ユーロ圏の全市民に一人当たり1000ユーロを給付することによって需要を刺激することもできる。公的債務負担を増幅させることもなく民間部門を活性化できるのはこのような直接的な資金の移転である。
バイデン大統領の米国経済が日欧に比べいち早く回復基調にあるのは1.9兆ドルのレスキュー・プランという名のヘリコプター・マネーで年間所得7万5千ドル以下のすべての世帯に1200ドルの小切手を配布したからであるとされている。しかし正確には少し違う。ヘリコプター・マネーは全世帯に対する中央銀行からの直接的な資金供与のことであり,今回の米国の救済予算は純粋に予算措置であり,政府の補助金交付行為であって中銀の資金創出ではない。このような支援措置は本来は迅速に行動できる中央銀行に託されるべきだ。副作用としてのハイパーインフレの脅威はないが,そのようなリスクを制御できるのは通貨当局である。欧州ではエコノミストの間で従前からこの考えが支持され公的債務を増大させずに成長を後押しできると考える経済学者が多い。EUが20年来進めてきたECBの金融支援は限界に近づいてきている。中銀の資産買入は必要であったが,それらは景気悪化を食い止めるのに精一杯で成長軌道に乗せるには不十分であった。ECBの政策金利引下げやここ3年来の大規模な資産購入もインフレ率に辛うじて僅かなプラスの上昇しか影響を与えずデフレ基調が定着している。金融政策が実体経済に波及するまで約6か月かかると言われている。それに対して欧州全市民への例えば1000ユーロの給付金はGDPを即座に1.2%引き上げるとされる。コロナ収束に近づいた欧州では平均消費性向の上昇が予想され給付金はその太宗が消費に向かうとも言われる。量的緩和策に沿った資産購入よりも遥かに成果が期待できるかもしれない。コロナ危機はこのようなヘリコプター・マネーを実行する絶好のタイミングだ。反対論もちろんある。一律の支給が能力と業績によって社会的な地位が諸個人に配分されるという近代的社会編成原理を指す概念であるメリトクラシーに反するのではないかという点である。巣ごもり消費とワクチン接種の格差の現実には欧州だけでも架空の笑い話だが何百機のヘリコプターと何時間が必要になるのだろうか。
[参考文献]
- La "monnaie hélicoptère" : remède miracle face à la crise du coronavirus ? Par Juliette Raynal 02/04/2020, 8:00
- “Helicopter money in Europe: New evidence on the marginal propensity to consume across European households” KatharinaDrescheraPirminFesslerbPeterLindnerc https://doi.org/10.1016/j.econlet.2020.109416
- “HELICOPTER MONEY BAILOUTS FOR PEOPLE, NOT FOR BANKS” Thiery Philipponnat
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