世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
エネルギー密度から再考する脱炭素政策と移動体技術の将来性
(元信州大学先鋭研究所 特任教授)
2025.08.11
2025年7月の記録的猛暑と降雨量の著しい減少を受け,各報道機関では地球温暖化を当然視する論調があふれ,専門家を名乗る人物が一方的な見解を披露する場面が目立つようになっている。たとえば,海水温上昇が秋刀魚や鯖の不漁に直結しているとの解説がなされる一方で,同時期に確認されているイワシの記録的豊漁(痩せているのではなく丸々太っていて近年になく美味である)には全く触れない。科学的態度とは,本来こうした対照的なデータを冷静に比較検討し,因果関係を多面的に吟味する姿勢にある。ところが現在の報道姿勢は,プロデューサーや編集責任者の価値観を前提とした言説の拡散に傾き,それがやがて「世論」として固定化される。日本は,戦前に類似の現象が社会全体を誤った方向に導いた歴史を持ち,我々はそれを深く反省してきたはずである。それにもかかわらず,エネルギー・環境問題をめぐる今日の議論は,同じ過ちを繰り返す兆しを見せている。
特に注目すべきは,近年のバッテリー式電気自動車(BEV)の販売停滞と,それに呼応するかのように米国トランプ大統領がCO₂排出削減政策を強く否定している現状である。このような産業経済的,政治的対立構造の中で,脱炭素政策が「善」と「悪」の構図にすり替えられ,物理法則や経済合理性に基づく冷静な議論が後景に追いやられている。
ここで改めて問うべきは,技術的・経済的な視点から見て,どのようなエネルギー源が「現実的」で「持続可能」なのかという根源的な問いである。そのためには,感情的なスローガンではなく,物質の持つエネルギー密度(energy density)という科学的指標に基づいて移動体や発電所に適したエネルギー源を再評価する必要がある。
エネルギー密度とは,単位質量または体積あたりに蓄えられる,あるいは放出可能なエネルギー量である。例えば,リチウムイオン電池のエネルギー密度は質量あたりで約0.5〜0.9MJ/kg(MJ=メガジュール,エネルギーの単位。1kCal = 約4.2kJ)にすぎない。一方,ガソリンは約44MJ/kg,石炭でも約30MJ/kgと,1桁以上の差がある。この差異は単なる理論値の違いではなく,移動体の航続距離,積載量,稼働コストに直結する決定的な要因である。
「電池は再充電可能であるから優位」との主張もあるが,仮に1,000回再充電できたとしても,その総エネルギー供給量が化石燃料1kgあたりのエネルギー密度に追いつくわけではない。加えて,リチウムイオン電池は水分や酸素と反応しやすく,発火・爆発の危険を常に抱える。さらに,使用後のリサイクル工程では,高温処理・化学的分離・再精製などに多大なエネルギーが必要とされ,その過程で有害廃棄物が発生する可能性も高い。
一方,ガソリンや石炭などの化石燃料は,温室効果ガスの排出源として厳しく批判されるが,実用面では高いエネルギー密度,常温常圧での貯蔵・輸送の容易さ,既存インフラとの整合性などの点で依然として高効率なエネルギー供給源である。特に,航空機や長距離輸送といった高出力・長時間運転が必要な領域では,現時点で代替可能な技術は限られている。
したがって,今後のエネルギー政策に求められるのは,単純な「CO₂悪玉論」や「再エネ=正義」という善悪二元論を超えた,科学的かつ経済的合理性に基づく議論の再構築である。すなわち,物質の収支(mass balance)とエネルギーの収支(energy balance)を精査し,供給安定性,環境負荷,リスクマネジメント,ライフサイクルコストまでを含めた多次元的な視点が求められる。
しかし,欧州,特にドイツの一部環境政党においては,こうした科学的・経済的視点よりも,自国産業保護や政治的自立を背景とした排他的な主張が目立つ。EUタクソノミーにおけるエネルギー源の分類や,内燃機関車への規制方針などは,その一例であろう。他国技術への不寛容な態度や,排外的な制度設計が続けば,かえって脱炭素の国際協調を損なう結果を招く。
エネルギー転換とカーボンニュートラルの達成は,熱力学,材料科学,資源経済学,地政学など,多領域にまたがる極めて複雑な課題である。これに対して必要なのは,長期的かつ中立的な技術評価と,エネルギー密度・安全性・回収性・環境影響などに基づくトータルバランスの思考である。
いまこそ我々は,特定の手段やイデオロギーに固執するのではなく,科学と経済に根ざした総合的かつ現実的なアプローチによって,持続可能なエネルギー社会の設計を目指すべき時にある。大本営とメディアが一緒になって推進したプロパガンダと情報の偏りは敗戦という歴史上最大の国難をもたらした。戦争終結80年を迎えて,改めて「失敗の本質」(戸部良一,他,中央公論社)を読み直してみよう。
- 筆 者 :鶴岡秀志
- 分 野 :資源・エネルギー・環境
- 分 野 :科学技術
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