世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
戦没者を追悼する
(国際経済政策研究協会 会長)
2025.08.11
沖縄で戦火に散った父
私の父・重原清三郎は,群馬県の師範学校高等専門科を同期生中の首席で卒業し,30歳代の初めに県内の農村の小学校校長職と,前橋市内で最も格の高い小学校の副校長職のいずれかを打診され,後者を選んだ。年老いた校長を支えながら学校運営の実務を取り仕切っていた。同期の後日談によれば,もし前者を選んでいれば応召は免れたという。だが父は32歳で召集され,軍事訓練もないまま沖縄に送られた。現地では司令部の文書管理部門に勤務したが,戦死の経緯は不明である。1945年6月19日,沖縄戦終結間際の戦死であり,防衛隊の最終局面で突撃命令を受けた可能性もある。
父は一度,本土の司令部との事務連絡のため沖縄から鹿児島へ飛行機で赴き,前橋在住の母の実父で,クリスチャンの社会事業家であった田辺熊蔵に電話を入れた。鹿児島の部隊の人たちは「沖縄に戻れば犬死になる,そのまま鹿児島に残れ」と諭したが,父は「部下を見捨てるわけにはいかない」として沖縄に戻った。この事実は,母の実弟で元日本社会党書記長の田辺誠が,母の他界後に私へ打ち明けたものである。あまりに衝撃的な内容であったため,熊蔵は娘である母には告げず,息子の誠にのみ伝えたが,誠もまた姉である母には話さなかった。志の高い教師であった父のことゆえ,沖縄帰任後に部下を率いて突撃し戦死したとしても不思議ではない。
80回目の命日の出来事
父の80回目の命日である本年6月19日,私の長男である啓明と,その長男である侑幸(重原姓を継ぐ唯一の男系ひ孫)が遺族を代表して前橋市の菩提寺・教徳寺を訪れ,墓前に生花を供えて冥福を祈った。今春からフランスに長期滞在中であった私は,父が戦死したと伝えられる沖縄本島南端・米須の海岸に想いを馳せ,英仏海峡に面したノルマンディーの海岸でその日を迎えることにした。
早朝,人影のない浜辺に立ち,日本の方角へ頭(こうべ)を垂れ,父の冥福を祈る。やがて静かな海を見つめているうちに感情があふれ,嗚咽がこみ上げた。周囲に誰もいない浜辺で「お父さん」と海に向かって叫び,続いて,戦死の公電を受けたときの母を思い「お母さん,本当に辛かったね!」と声を上げた。
父は長身であったが,戦後の食糧難のなかでも私は父の背丈を越え,息子,その息子もさらに成長した。皆健康で,真面目に生きていることを,教師であった父はきっと喜んでいるだろうと思い,ようやく平静を取り戻した。そして若くして亡くなった父,また若くして寡婦となり私と弟を育て上げた母から授かった命を粗末にせず,これからも世の中のために力を尽くしたいと心に誓った。
この日の出来事と心情は,限られた親族らにメールで伝えた。これは,戦争被害者の遺族としての私の立場から記したものである。
戦争による内外の犠牲者たちを思う
先の大戦で日本が海外諸国に甚大な人的・物的損害を与えたことも忘れてはならない。そこで私は英語で
Eighty Years After My Father’s Death in War, I Bow to the Sea: A personal remembrance – and a plea to never forget the cost of war
と題したメッセージを新たに書き,フランスから海外の友人たちに配信し,その後ウェブサイトにも掲載した。和訳は以下のとおりである。
父の戦死から八十年,海に向かいて頭(こうべ)を垂れる
ノルマンディーから沖縄へ
重原久美春,2025年6月19日に記す
八十年前,沖縄戦の末期に父は戦火に散った。私は六歳で父を失い,その後,日本銀行,そして国際公務員として生涯を公に捧げた。今,フランス・ノルマンディーの海岸に立ち,祖国の方角へ頭を垂れる。父の追憶とともに,すべての戦争犠牲者への畏敬,そして平和への誓いを新たにするために。
* * * * *
2025年6月19日,わが家は一つの厳粛な節目を迎えた。父,重原清三郎が第二次世界大戦において戦死してから,ちょうど八十年である。父は三十二歳で召集された元小学校教師であり,太平洋戦争末期,沖縄戦の渦中に斃れたと伝えられる。
この日,父の唯一の男系の孫である啓明,そして曾孫の侑幸―ともに「重原」の姓を継ぐ―が,群馬県前橋市の菩提寺に参り,墓前に花を手向け,冥福を祈った。私は遠くフランスにあって,この日を私なりの形で悼んだ。英仏海峡に面した波静かなノルマンディーの海岸に立ち,暁の光の中,ひとり東方,祖国日本を望みながら。
想いは沖縄本島最南端の米須の浜へと飛ぶ。そこが,父が最後の息を引き取ったであろう地である。潮騒が足もとを洗い,水平線が徐々に明るみを帯びていく中,私は静かに頭を垂れて祈りを捧げた。そして胸の奥からせり上がる衝動に押され,思わず呼びかけた。「父さん!」そして,涙が溢れた。
脳裏には,あの忌まわしい電報を受け取り,幼い二人の息子を女手ひとつで育て上げねばならなかった母の姿が浮かんだ。私は涙の中でつぶやいた。「母さん……さぞかし大変だったでしょう。」 母の静かな強さは,生涯,私の支えであった。彼女は怨嗟を口にせず,ただ忍耐と毅然をもって日々を生きた。
あの浜辺の一瞬は,時の隔たりを超え,父と私を結び直した。父は,私がその後歩むことになる道を知ることはなかった。私は父を失ったとき,まだ六歳であった。それでも,父はきっと誇りに思ってくれたに違いない。日本銀行に奉職し,のちに国際公務員として生涯を公に捧げた私の人生は,戦争によって刻印されながらも,平和によって導かれたものであった。私が享受してきた平穏な日々は,決して自明のものではない。それは無数の犠牲のうえに築かれた恩寵である。ゆえに私は,この節目を,父の追憶のみならず,戦争で命を落としたすべての人々への畏敬をもって迎えた。
しかし,いま世界の地平には再び戦火の兆しが絶えぬ。私が静かに祈りを捧げていたその日,米国軍用機がイランの核施設を空爆したとの報が入った。
再び,戦争が人間の営みに割り込む。
再び,命が奪われる。
再び,家族が悲嘆に暮れる。
一人の兵士が倒れるたび,一人の市民が命を落とすたび,必ずその背後には深い嘆きがあり,そしてその連鎖は止むことなく続く。
戦争の惨禍を身をもって経験した日本は,長く平和主義の灯台であった。しかし,記憶するだけでは足りない。外交を通じ,国際協調を通じ,そして教育を通じ,人類の対立において戦争が「当然の解決策」とならぬ未来を築かなければならない。それは抽象的な願望ではない。道義的責務である。そして,私にとってはきわめて個人的な務めでもある。
ノルマンディーの海に向かって立つとき,私が見たのは,フランスと沖縄の距離ではなく,記憶の近さであり,戦争がもたらす共通の代償であり,国境を超えて響き合う平和への深い希求であった。
その希求を,我らの道標とせよ。
その希求に,我らの行動を促させよ。
いつの日か,子供が海に向かってただ一人,頭を垂れねばならぬことが二度とないように。
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