世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1744
世界経済評論IMPACT No.1744

パンデミック対応の公共政策:便益費用分析の立場から

藤村 学

(青山学院大学経済学部 教授)

2020.05.11

 本稿では,連日報道される世界各国での感染者数・死亡者数や倒産・失業といった事象に対し,どういう政策議論が合理的なのかについて,1つの枠組みとして,便益費用分析の立場から論じたい。

 感染症であろうが,自然災害や交通事故であろうが,あらゆる人命損失となる原因を予防・緩和する公共政策やプログラムをすべて横並びに同一基準で比較し,1人の人命を救うのに,どれが最も安上がりかを検討するのが公共政策の選択において望ましい姿勢であろう。ビル・アンド・メリンダ・ゲイツ財団は,その資産の源泉についての倫理的側面はさておき,2015年あたりからパンデミックがグローバルな人命損失リスクの最筆頭であると判断し,これに備えるよう国際社会や米国政策当局へ啓蒙発言を行ってきたようだが,結果的に効き目はなかったようだ。

 日本経済新聞4月27日付の論説記事で言及されているNZ InitiativeというシンクタンクのBryce Wilkinson氏が4月9日に公表した ”Quantifying the wellbeing costs of Covid-19”という研究メモは,人命と直接的に関わる公共政策について,便益費用分析の枠組みを正面から適用しようとした試みだと言える。

 同メモでは,20世紀初頭のスペイン風邪のような感染症がニュージーランドを襲うことを想定し同国疫学専門家が2017年に構築したシミュレーションモデル(年齢層別の感染率,医療機関での治療効果,そのうえでの死亡率などを勘案)を用いて今回の新型コロナに置き換え,生活の質を加味した生存年数(quality adjusted life years, QALY)という単位の消失に1人当たり国民可処分所得を掛け算で大胆に評価した。その試算によると,ニュージーランドにおいて,感染拡大が放置された場合に保健省が予想した死者数3万3600人の損失価値をはじめとする合計の経済損失換算はGDPの6.1%相当額だったという。ただし,,Wilkinson氏自身がたくさんの留保条件をつけているように,この数字はあくまでも便益費用分析の考え方を例示しただけで,その方向での政策議論を活性化させたい,というのがこのメモの動機である。また,実際は,ニュージーランド政府はその正反対の対応をとったので,その結果としてのビジネス断絶などに伴う経済的損失はこのメモでは扱っていない。

 保健や公衆衛生の分野においては,人命に値札をつけることの倫理問題を避けるため,便益費用分析の実務では「QALYの損失1単位を減じるのに必要な費用」を基準にして介入プログラムの優劣を議論することが多いが,今回のパンデミックの場合,ウィルスによる人命損失と,それを減らすための経済封鎖による失業・自殺などが直接的な比較対象となってしまうので,倫理問題を強行突破する政策議論が必要だというWilkinson氏の意図に筆者も共感する。

 疫学や公衆衛生の門外漢ではあるが,筆者の立場からは以下の通り主張したい。当面,信頼に足る安全なワクチンの開発・普及には時間がかかるという前提のもとで,放置オプションを政策スペクトラムの一方の極に配し,もう一方の極には人命損失を1人たりとも出さない政策オプションを配し,その中間のスペクトラム上には,政策介入の初動のタイミングとその中身も含めた様々なオプションのメニューを並べ,その各メニューに対応するする人命損失軽減と追加的経済損失のトレードオフ関係を投射したテンプレートを作成したうえで,透明でオープンな政策議論の場をつくるのが理想だろう。いざパンデミックの発生が感知された段階では政策対応のスピードが追い付けない。第2波,第3波を覚悟したうえで,産官学(例えば実業界のシンクタンク,厚生労働省,経済系省庁,医療経済学者)の協働によって,様々な政策オプションに対応する便益費用予測の概算ができるテンプレートをつくっておくべきではないだろうか。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1744.html)

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