世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.4080
世界経済評論IMPACT No.4080

タイのアヌティン政権の危機:MOU43,地雷,カンボジア軍との戦闘

鈴木亨尚

(元亜細亜大学アジア研究所 特別研究員)

2025.11.17

 9月7日,タイのワチラロンコーン国王(ラーマ10世)は,憲法第158条の規定に基づき,王室官報にて勅令を公布し,アヌティン・チャーンウィーラクーン(タイ誇り党)を正式に第32代首相に任命した。アヌティンは,首相就任に際し,①経済救済(エネルギーと交通を中心とした国民の生活費の削減,農家や低所得者の債務救済,地域社会の所得向上),②国境の安全(カンボジアとの国境紛争の平和的解決,主権保護,影響を受けた家庭への補償),③自然災害への対応(早期警報システムの強化,公平で迅速な復興と補償),④社会問題(隣国や友好国との密接な協力を伴う麻薬,人身売買,詐欺,違法賭博の取り締まり)を喫緊の課題に設定,4か月以内の下院解散を踏まえ,短期間で,精力的に取り組むと表明した。各種世論調査をみると,国民は,特に,経済を重視している(注1)。

 9月19日,国王が新内閣を承認,24日,新内閣は国王の前で宣誓式を行った。閣僚は36人(うち12人が誇り党所属),アヌティンは内務大臣を兼務する。外務大臣にはシハサック元外務次官・駐日大使,財務大臣(副首相との兼任)にはエクニティ財務長官,国防大臣にはナタポン国防大臣代行が就任した。式後の初閣議で,アヌティンは,4か月以内に下院を解散し,3月または4月上旬に総選挙を実施する考えを明らかにした。また,選挙と同日に後述する国民投票を実施すると表明した。さらに,カジノを含む統合型施設(IR)の設置及びオンラインカジノは合法化しないと表明した。

 9月29日,アヌティンは,合同議会で,所信表明演説を行い,喫緊15項目を提示した。これは経済分野(①所得と費用の管理,②債務問題の解決,③国民の貯蓄の増加,④観光の信頼回復,⑤貿易戦争の影響への対処),安全保障分野(⑥タイ・カンボジア紛争,⑦南部諸州の治安),社会分野(⑧違法賭博の抑制,⑨法の支配の擁護,⑩汚職の根絶,⑪宗教の保護),環境・災害管理(⑫災害警報システム,⑬低炭素社会の推進),行政・法制度改革(⑭デジタル・ガバメント,⑮法・規制改革)である。安全保障分野のタイ・カンボジア紛争に関連して,アヌティンは,MOU43(陸上国境の測量及び画定に関する覚書)とMOU44(大陸棚重複領有権に関する覚書)の破棄に関する国民投票を総選挙と同日に行うと表明した。アヌティンは,個人的には覚書の廃止に賛成だが,覚書は物議を醸すものなので,国民の意見を聞く必要があると主張したが,国民投票前に,下院特別委員会の調査が完了するのを待つとも述べた(注2)。

 9月29日,ナタポン国民党党首は,「国境問題は複雑かつ外交的な課題であり,国民投票に委ねるのではなく,政府が責任を持って判断すべき事柄である」と述べ,政府に対し国民投票の断念を強く求めた(注3)。

 これに先立つ9月28日に,カンボジアのセン・ダイナ法務省国務長官兼報道官は,「MOU43は国連に登録されており,条約と同等の国際協定のため,当事者のいずれかが一方的に破棄できるものではない」と述べた。また,「MOU43は,両国間の陸地境界の調査と境界画定が目的で,それが達成されるまで有効であり失効条項も一方的な終了の規定も含まれない」と付け加えた(注4)。

 9月末,タイの下院特別委員会はMOU43の調査を完了した。同委員会は調査結果報告書を12月初旬までに完成させ,下院に提出する予定であるが,MOU43と合せてMOU44につても破棄勧告を行うかを決定する(注5)。

 10月,下院特別委員会でソンチャイ・チャイパティユット法務省条約局副局長は,MOU43について,「新たな国境を創設するのではなく,シャム・フランス条約に基づき,地理的に正確な“既に存在する国境の画定”が目的である」と述べている。また,裏付けとなる証拠には「1904年と1907年の2つのシャム・フランス条約に基づいて描かれた地図が含まれている」と述べた。タイの利益を主張すべき立場であっても,法的思考に基づけば,このような判断になる。また,タイ王立測量局局長のチャコーン・ブーンパクディー中将は,MOU43の枠組みの下で,798kmの国境線に関し,2006年に現場作業が開始され,現在までに602kmが合同で調査され,45の国境標が合意されたと述べた。一方,仮設標識が存在しなかった残りの196mについては,29の国境標は合意に至っていないままだ。今後,正確な境界を示すために,LiDAR(光検出測距)を使用すると述べた(注6)。

 国境未画定地域の大半をタイが実効支配する中で,MOU43は調査中の地形の変更を禁止していたため,タイの優越的地位が維持されてきた。しかしMOU43が破棄されれば,合意された45の国境標を含む交渉プロセス全体が無効になる。上記の条約局と測量局は,MOU43は主権に対する脅威ではなく,むしろ国境問題を感情ではなく事実に基づいて解決しようとする理性と科学のメカニズムであることを再確認した(注7)。現政権を含めたタイの保守派の多くはこのことを十分に承知しているはずである。とするならば,彼らは,まず,MOU43を破棄し,次いで,タイとカンボジアが継承しているシャム・フランス条約の形式的,ないし,実質的破棄を考えているのかもしれない。しかし,それは大規模な武力紛争を招くことになる。しかも,保守派の思考はポピュリズム的である。国民投票で,議会や知識人を迂回し,大衆に直接働きかけようとする。政権は,大衆が賛成する状況を作り出し国民投票を行う。企図どおり成功すれば,政権・保守派の功績で,失敗すれば国民の責任である。国民党の懸念はこのようなところに根ざしているのだろう。

 国民開発行政研究院(NIDA)の10月の調査では,MOU43とMOU44の破棄に関する国民投票実施について,60.76%が「この考えを支持する」と回答している。一方で,MOU43に関し,69.08%が「まったく理解していない」・「ほとんど理解していない」と,MOU44に関し,70.69%が「まったく理解していない」・「ほとんど理解していない」と回答している。すなわち,多くの回答者が内容を理解していないにもかかわらず,これらを国民投票にかけることを支持しているのである。このような人々の多くは,国民投票で,MOUの各々の破棄「賛成」に投票することになるだろう(注8)。

 総選挙の際,有権者は6つの質問に回答し,4つの投票箱に入れなければならない。混乱必至である。NIDAの10月7~9日の調査で,79.16%が「混乱している」・「非常に混乱している」と回答している。第1の投票箱は選挙区の議員用である。第2の投票箱は比例区の議員用である。第3の投票箱は憲法改正国民投票用で,質問が2つある。第4の投票箱はカンボジアとの国境に関する覚書用で,MOU43とMOU44の各々に関する質問がある(注9)。

 10月15日,ボウォーンサック副首相(法務担当)は,2026年1月31日解散,3月29日総選挙という暫定日程を発表した。

 11月9日までに,アヌティンは「我々(タイ)も侵略行為を行っている」と発言し,国内で強い反発を招いた。この発言は,カンボジアに対する融和的な姿勢を示すためのものだったとみられるが,国内のナショナリズムの高まりから「国家の誇りを傷つけた」として批判が殺到した。10日,アヌティンは,記者会見で,「言葉の選択が不適切だった。タイの領土主権は絶対で,侵略など一切ない」と釈明し,謝罪した。さらに,アヌティンは,「私は皆さんに保証する。タイがいかなる領土,主権,名誉,尊厳を失う可能性は絶対にない」さらに,具体的な地名として,シーサケート県のター・クワイ遺跡が失われることはないと明言した(注10)。

 こうした中,アヌティンとっては大変都合のいいことが偶然に起きた。11月10日早朝,タイ軍兵士4人が地雷の爆発で負傷したのだ。これを受けタイ政府は,トランプ米大統領の立ち会いの下,タイとカンボジアとの間で10月26日に締結された「カンボジア王国首相とタイ王国首相によるマレーシア・クアラルンプールでの会談の成果に関する共同宣言」を停止すると発表した。タイ陸軍報道官によれば,これは事件発生の前日,タイのシーサケート県に隣接するタイが実効支配する国境未画定地域で,カンボジアが有刺鉄線のフェンスを撤去し,新たな地雷を埋設,同地域で頻繁に通行があるルートを定期巡回中のタイ軍兵士1人が地雷を踏み右足を失い,3人が爆風で胸部を負傷したというもの。その後,タイ軍は3個の地雷を爆発現場付近で発見したという。また同報道官は,タイは12日に捕虜のカンボジア兵士18人をカンボジアに引き渡す予定だったが,これを中止したと発表した。カンボジア政府は,声明で,「疑惑を断固として否定する」と述べ,新たな地雷は「敷設しておらず,今後も決して敷設しない」と付け加えた。また,カンボジア外務省は,声明の中で,「1970年代から80年代にかけてのカンボジア内戦後30年近く国境沿いの地雷のほとんどが今なお除去されていない」と指摘した。CNNは「カンボジア軍が新たな地雷を敷設したというタイの主張を独自に検証できていない」と伝えている(注11)。このような状況は,MOU43とMOU44が国民投票にかけられる可能性を高め,そうなった場合の国民の同意の可能性を高めることになるだろう。

 11日,タイ政府は国家安全保障会議を召集,カンボジアとの国境紛争に関する対応について軍に決定権を与える決議をした。これにより軍は政府承認なしに軍事行動が展開できるようになり,国境地帯での偶発的衝突が起きやすくなる危険性が高まった(注12)。そして事態はさらに悪化した。カンボジア国防省によると,タイ軍が12日午後3時50分頃,係争中の国境の村近くで発砲し,カンボジア軍兵士の少なくとも1人死亡,3人が負傷した。これについてタイ陸軍報道官は,「カンボジア軍が最初にタイ側に向けて発砲した」と反論,「タイ軍は交戦規則に従い,身を隠して警告射撃を行った」とし,タイ側に死傷者は出なかったとした(注13)。

 近年,タイではナショナリズムが喚起されているが,さらに,来春の総選挙に向けて,タイは既に「政治の季節」に入っている。当面,状況の改善は見込めないと思われる。

[注]
  • (1)『タイ通』2025年9月8日。
  • (2)The Nation,29 September 2025; JETRO「アヌティン首相,国会で所信表明演説を実施」『ビジネス短信』2025年10月3日;『STAR CAMBODIA』2025年10月3日。
  • (3)『タイ通』2025年9月30日;『バンコク週報』2025年10月7日。
  • (4)Thai PBS World,1 October 2025;『STAR CAMBODIA』2025年10月3日。
  • (5)The Nation,29 October 2025.
  • (6)The Nation,1 November 2025.
  • (7)Ibid.
  • (8)The Nation,5 October 2025.
  • (9)Bangkok Post,12 October 2025.
  • (10)https://note.com/takeokmt/n/n297f09c39debhttps://note.com/takeokmt/n/n49ab4c632749 2025年11月13日最終閲覧。
  • (11)『日本経済新聞』;『YAHOO!ニュース』ともに2025年11月10日;『CNN』2025年11月11日。
  • (12)『日本経済新聞』2025年11月12日。
  • (13)『Reuter』2025年11月13日。
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article4080.html)

関連記事

鈴木亨尚

最新のコラム