世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.4040
世界経済評論IMPACT No.4040

張忠謀(モリス・チャン)物語(上):世界最大のファウンドリー企業の創業者

朝元照雄

(九州産業大学 名誉教授)

2025.10.20

時価総額世界トップ10企業入りしたTSMC

 GAFAM(ガーファム)と呼ばれる,Google(現在のAlphabet),Apple,Facebook(現在のMeta),AmazonとMicrosoftに加えて,「AI5」(注1)と呼ばれるNVIDIA,Microsoft,AMD,台湾積体電路製造(TSMC),Broadcomは,いずれも時価総額世界トップ10にランクインする企業である。このうち,NVIDIA,AMD,Broadcomは半導体設計(ファブレス)企業であり,この3社の殆どが,半導体製造(ファウンドリー)企業であるTSMCに製造を委託している。周知のとおり,TSMCは線幅3ナノ以下の最先端半導体の世界市場で9割以上のシェアを持つ企業で,多くのファブレスはTSMC抜きには立ちゆかない。本稿ではTSMCの創業者で同社を世界屈指のファウンドリーに育って上げた張忠謀(モリス・チャン)の半生を2度に分けて取り上げる。

幼いからの戦火,進学,留学と就職

 モリス・チャンは1935年7月10日,父・張蔚観,母・徐君偉の間に中国東部の浙江省寧波で生まれた。張蔚観は裕福な家庭に育ち,近代的大学教育を受け,現地の財政局長を歴任した。徐君偉は典型的家庭の主婦で,一人子のモリスは両親の慈愛を受け育った。モリスが1歳の時,張蔚観の転勤で一家は南京に移り,更に5歳の時には,張蔚観が銀行の支店長に昇進し広州に転居した。

 1937年,盧溝橋事件が勃発。同年末には,日本軍は上海,南京などを占拠し,戦火は南進した。幼いモリスは両親と共に香港に逃げたものの,1942年には香港も日本軍によって陥落した。張蔚観は家族を連れ重慶に逃げ,現地で銀行職を得た。モリスは日本が敗戦する11歳までの間戦火の影響を受けたが,徐君偉はモリスに水滸伝,西遊記,三国演義など歴史小説を買い与え,読書への関心を養った。その甲斐もあって,モリスは優秀な成績で,当時最もランクが高い「南開中学」に推薦で入学,その後も優秀な成績で「南開高校」に進学した。

 終戦後,モリス一家は上海に戻り,15歳で「南洋模範高校」に合格,徐君偉はモリスのために外国人家庭教師を雇い,英語教育にも心血を注いだ。「モリス・チャン」の英語名の「Morris」は中国名の「謀」に発音が近いと言うことでつけた名前である。この頃,モリスはバイオリンと社交性をつける目的でトランプの「ブリッジ」も学んでいる。

 1948年夏,モリスは「滬江大学銀行学系」に合格したが,その矢先,国共内戦が勃発し,一家は再び戦火から逃げることになった。同年,張蔚観は満18歳になったモリスをサンフランシスコに送った。翌1949年にモリスはハーバード大学に合格した。一層の英語力を磨くため,新聞,雑誌,近代米大統領の講演やアーネスト・ヘミングウェイ,ウィリアム・シェイクスピアの小説を読み,1年間で英語のレベルは飛躍的に向上した。学期末の成績では全学生の上位10名に入るほどの成績を残している。

 ハーバード大学には工学部がないため,1年後の1950年にマサチューセッツ工科大学(MIT)の機械工学学系2年次に編入した。奨学金を得たものの,生活費の不足を補うべく,大学の研究アシスタントなどのアルバイトも経験した。この頃,モリスの両親も移民として米国へ行くことを決め,ニューヨークで土産物店を開いて質素な生活を送った。

 1953年6月,モリスは上海からの留学生「クリスティーン・チャン」と交際2年を経て結婚,その3カ月後には「機械工程修士」の学位を取得した。その後,博士課程に進むべく試験を受けたが不合格。2年後に再挑戦したもののまたも不合格。これはモリスにとって人生最大の挫折であった。

 博士課程への進学を断念したモリスはMIT修士号のブランドで就職活動し,4社から内定が得られ,クリスティーンもボストンで就職できた。その当時,1950年代の米国の半導体産業は萌芽期であり,20~30社がこの新興領域に参入した。1955年5月,24歳のモリスは「シルバニア・エレクトリック・プロダクツ」に入社,独学で半導体の技術を学び,直ちに同部門の管理者になった。残念ながら同社は赤字経営が続いたことで,3年後には大規模なリストラを行い,モリスも免れることが適わず,再び就職活動をすることとなった。当時,世界最大の半導体企業テキサス・インスツルメンツ(TI)が「試験室と製造部門」を設け,27歳のモリスはこの部署に採用された。チームは半導体の歩留まり率(良品率)を改善させ,技術的にも大きく進展させ,IBMから大きな受注を得るに至った。

 1961年,モリスはそれまでの業績が認められ,TI社から給与,学費ほかの諸経費のお抱え付きでスタンフォード大学博士課程へ進学することとなった。唯一の条件としては,学位修了後TI社に最低5年間務める義務が課されていた。1964年,33歳のモリスは博士号を取得し,再びTI社に戻った。モリスは大幅に半導体の良品率を向上させたことに留まらず,離職率を低下させ,41歳には「グループ副総裁」の社内ナンバー3に昇格,「グループ社長」も兼任した。その後,モリスは20数年間働いたTI社を離れ,1984年にジェネラル・インストゥルメント(GI)の総裁に就任した。

工業技術研究院長に就任

 1980年代,台湾は積極的にハイテク産業の発展を促し,当時,行政院長(首相に相当)の孫運璿と政務委員(無所属相に相当)の李国鼎は海外から優秀な人材の招聘に力を入れていた。その中でモリスは最も重要な人材であった(当時の米国ハイテク大企業でモリスは華人として最も高い職位に着いた人物)。1982年,孫氏は李氏に命じ,モリスを訪ねさせ3つの条件で彼を招聘しようとした。すなわち,①工業技術研究院(ITRI)の院長就任,②行政院科学技術チームの顧問就任,③スタートアップへの資金提供業務の主導,である。

 これまで台湾に行ったことのなかったモリスは,李氏等の強い熱意に動かされ,数度台湾を視察した。台湾の半導体産業を発展させる環境は未熟であるが,モリスは事業に対する企図心を抱き,2~3年の間熟考した末,1985年に単身で台湾に渡り,半導体産業発展に極めて重要な役割を果たすことになった。工業技術研究院(ITRI)の院長および聯華電子(UMC)の会長を兼任した(UMCはITRIからスピンオフした最初の半導体製造企業)。2年後の1987年にモリスはITRIからスピンオフした半導体ファウンドリーであるTSMCを創業し,世界初の半導体受託製造企業を起こした。

[注]
  • (1)AI5とは,近年特に人工知能(AI)の分野で大きな影響力を持つ企業群を指す新しい呼称の一つで,構成企業には複数の説があり,Apple,Alphabet,Amazon,Microsoft,Nvidiaを指す場合もある。
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article4040.html)

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