世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
フィジカルAI:「触れる知性」の夜明け
(元信州大学先鋭研究所 特任教授)
2025.10.13
近ごろ生成AIをめぐる話題が世界を覆っている。OpenAIやAMDへの巨額投資,アマゾンやグーグルのデータセンター競争が活発化している。すべてが「知の演算」をめぐるIT帝国の覇権争いである。だがその陰で,AIが現実世界(生活空間)に踏み出そうとしている。ロボット,自動運転,介護支援など,これら「身体を持つ知性」を支える技術として登場したのがフィジカルAI(Physical AI)である。
従来のAIは,コンピューター・半導体チップの中に閉じ込められた「知的な影」であった。人間とディスプレー越しに語りあい,音声で応じることはできても,風の冷たさや手のぬくもりを感じることはできない。一方,フィジカルAIは,人間と同じ空間で動き,対象に触れ,判断して行動することを目指している。単なる機械ではなく,身体感覚を持つ機械的知性への進化である。
ところが,その最大の壁が「触感(Tactile)」である。現在のロボットはカメラで周囲を「見る」ことはできても「触る」ことができない。ロボットの「ハンド」は工場で部品をつかむことはできても,柔らかい桃や濡れた布を扱えばすぐに棄損かエラーを発する。その理由はロボットが「手の感覚」を持たないからである。触れるとは,単に圧力を測ることではない。滑り,摩擦,温度,微細な振動を同時に感じとる三次元的な知覚であり,人間が世界(環境)と関係を結ぶ根幹の行為である。
現状のセンサー技術は,この領域で立ちすくんでいる。多くの研究は金属線を布地にメッシュ状に配置したり,半導体薄膜をフィルム状に加工し,抵抗や容量の変化で圧力を検知するものとして多数報告されている。しかしそれらは従来の上下動を基準とした圧力検知センサーを活用改良したものであり,人間の皮膚のように立体的に「感触」を捉えることはできない。男性ならば,髭が伸びてきたことを「手触り」で感じ取ることがこれにあたる。しかも金属や半導体は水分に弱く,濡れると「分極」という化学反応を起こして誤作動(誤信号発信)する。制御された工場ではともかく,生活空間や屋外,宇宙探査など多様な環境で用いるには決定的に脆い。
人間が常に「何かに触れて生きている」存在であることを考えると,この欠落は深刻である。ソビエト時代の秘密警察KGBが,比重が人間に等しい液体に目隠しをした人を浮遊させて何かに触れている状態を失わせ,空間位置識別の感覚を奪う拷問を行ったとされる。肉体に物理的な傷を負わせることなく責めるのであるが,皮膚からの刺激を断たれると人は自分の位置を見失い,精神の均衡を崩すという。触覚は思考を支える基盤そのものということを如実に示した拷問である。
宇宙ステーションISSではこのKGB処置と似たような状況になるので,訓練に加えて方向を把握できるように床,壁,天井のレイアウトや色が統一されていて視覚的に「方向」を定めることが可能になっている。また,機器などを特定の場所に固定してあり,それに触れることで「位置」を把握させる。作業などでは椅子に座ることで「上下」を認識する手法をとっている。
真の意味でロボットの「触れる知性」を実現するには,従来の金属や半導体ではなく,分極を起こさない純粋な炭素や,それに近い物理特性をもつ材料で作られた繊維状センサーが必要になる。炭素繊維は軽く,しなやかで,湿気や化学的劣化に強く,電気的にも安定している。これを糸のように編み込み,布のように扱えるようになれば,ロボットの皮膚感覚は初めて人間の皮膚に近づく。最近では,大手商社からスピンオフした日本のベンチャー企業が,この炭素系材料で「触感」センサー量産化技術を確立しつつあると聞いている。もしこれが実用化すれば,介護ロボットが人の体温を感じ取り,宇宙探査機が岩の質感を識別するといった,そんな「触れるAI」の時代が到来する。
AIの進化は,ここに来て「知の抽象化」から「感覚の具現化」へと向かいつつある。言葉を操る知能から,世界に触れる知能へと大きなパラダイムシフトを迎えるだろう。それは同時に,私たち自身の文明の問いでもある。便利さのために身体を手放してきた人間が,いま再び「身体性」をテクノロジーの中に取り戻そうとしている。フィジカルAIは,単なる技術革新ではないかもしれない。哲学的にも,知性とは何か,人間とは何かを問う,新しい文明論的転換の兆しである。
日本がこの領域で先頭を走るためには,半導体工場への投資だけでなく,炭素系素材や感覚デバイス,それらを解析するソフトウエアといった“触れる基盤技術”への支援が不可欠と考えられる。言葉を生むAIが「頭脳」であるなら,フィジカルAIは「手」と「皮膚」にあたる。私たちが次に創り出すべき知性とは,デジタル画面の向こうにある「もう一つの身体」なのかもしれない。
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