世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
フン・セン前カンボジア首相の対タイ外交観:「クメールはできる」
(元亜細亜大学アジア研究所 特別研究員)
2025.09.29
カンボジアとタイの国境紛争において,カンボジアでは,フン・セン首相(当時,現・上院議長)が提唱した「クメールはできる(Khmer can do it)」というスローガンが大きな影響を与えている。これは,2020年6月に,フン・センが,シハヌークビルの完成間近の新設道路を視察した際,2つある道路のうちの1つに命名したものである。当該道路は,山を切り通して建設されたもので,シハヌークビル中心部からオートレスビーチ沿いに連なり,シハヌークビル国際空港まで10kmの地点に所在する。フン・センは「それは,道路を建設した技術だけでなく,デザイン,資金を含めすべてがクメール人の手によるものであるという意味だ。外国の関与はまったくない」と述べている。フン・センにとって,「カンボジア」が現在の国家や国民をさすのに対し,「クメール」は過去から現在までの民族の伝統をさしていると思われる(注1)。
また,フン・センは,2021年12月,同道路の落成式の際,「クメールはできる」という巨大なモニュメントの前で,「私は『クメールはできる』という言葉の意味を明確にした。クメールは現在までの数千年間に様々なことをなしてきた。クメールは国中に寺院を建立し,最も重要なのはアンコールワット,プレアヴィヒア,サンボール・プレイクック,プラサート・トムに代表されるカー島の遺跡群などである。『クメールはできる』という言葉はその起源から現在までの民族の歩みすべてをさしている」と述べている(注2)。
2020年6月に,フン・センが,命名した今一つの道路は「クメールはできる」から南に約2kmにある「愛を待つ木(The Waiting Love Tree)」である。道路予定地の真ん中に1本のベンガルボダイジュの巨木がある。この木は仏教では輪廻の象徴であり,持続可能な開発との観点で保存された。周辺は安全地帯となり,観光客は写真撮影が可能である。フン・センは,「『愛を待つ木』は持続可能性を象徴し,平和の維持,独立・国家主権・立憲君主制・王位の保護を意味する」と述べている。さらに,フン・センは「待つ」という言葉は「ずっとここにいる」という意味で,領土を失ってはならないということも含む幅広い意味を持つと述べている(注3)。
この道路沿いにはもう1つのモニュメントがある。「クメールはできる」から北に約1km,2本の道路の合流地点にある巨大なラウンドアバウトの中心に設置されたフナン王国の祖「プレア・トンとネアン・ニークの像(Statues of Preah Thong and Neang Neak)」で,高さは21mあるが残念ながら中国製である。フナン王国は1~7世紀に栄えたクメール人の王朝で,インド出身のプレア・トン王子が既存の国家の女王ネアン・ニークと結婚して建国したもので,今日のベトナム南部・カンボジア・タイ南部を支配下に置いた。2022年4月の同落成式で,フン・センは「シハヌークビルにおける多くの像の出現はシハヌークビルの誕生だけでなく,クメール全体の誕生のシンボルである。また,それは観光客を惹きつけるモニュメントとなっている。私も観光客が撮影しネットに投稿した『プレア・トンとネアン・ニークの像』の多くの写真を見た」と述べている。これら3つのモニュメントは国内観光客に人気の撮影スポットである(注4)。
フン・センは,フナン王国やアンコール王朝を例示して,「クメールが国家を指導できることを証明している」と述べている。アンコール王朝とは9~15世紀に現在のカンボジアを支配したクメール人の王朝である。また,フン・センは,「クメールはできる」という概念はクメールのすべての歴史を取り扱うことを目的としていると述べているが,これは,同概念が過去から現在までのクメールのすべて領土を取り扱うことを目的としていると読み替え可能である。このように,このスローガンは道路建設に関するものからナショナリズムを喚起し,クメール寺院とその周辺を自国領だと認識するという,より広範な概念に拡張していった。したがって,カンボジアがタイとの国境紛争で譲歩することはない(注5)。
フン・センに始まる「クメールはできる」という思想は文化に基づく統治とも,膨張主義とも結び付き得るといえよう。
[注]
- (1)Cambodia New Vision,1 June 2020; Cambodia New Vision, 2 December 2021; Cambodia New Vision,16 April 2022; K.Sreypor,“ PM:The Waiting Love Tree/Stone Represents Sustainability,” EAC NEWS, 2021; 板垣武尊・李崗「クメールはできる:観光を通じたナショナリズムの生成」(『和洋女子大学紀要』第65集,2024年)27,33~35頁。
- (2)同上。
- (3)同上。
- (4)同上。
- (5)板垣武尊・李崗,前掲論文,27頁,33~35頁。
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