世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3999
世界経済評論IMPACT No.3999

タイにおける誇り党と国民党の合意と首班指名

鈴木亨尚

(元亜細亜大学アジア研究所 特別研究員)

2025.09.22

 2025年8月29日,憲法裁判所の判決により,タイのペートーンターン首相が失職した。これにより,2023年の総選挙で各党が首相候補に指名し,今回の首班指名選挙の候補となり得るのは5人,その中では,タイ貢献党のチャイカセム元法相,タイ誇り党のアヌティン党首(前副首相兼内相)の2人が有力といえよう。下院の現有議席数は492で,過半数は247,タイ貢献党は140議席,誇り党は69議席で,キャスティングボートを握るのは下院最多の143議席を持つ国民党である。国民党は総選挙後に創設された政党なので,首相候補を有していない。そのため,同党は,他党の候補者の支持を検討することになるが,29日,支持の条件として,

  • (1)新首相は議会での所信表明演説から4か月以内に下院を解散しなければならない,
  • (2)新内閣は,国民から直接選出された憲法起草委員会によって起草された新憲法を認めるための2017年憲法の改正に関する国民投票を実施しなければならない。この国民投票は次の総選挙に遅れることなく実施されなければならない,
  • (3)国民党は,野党にとどまり,新政権の行動を精査し,いかなる大臣の地位も受け入れない,

をあげている(注1)。

 これについて誇り党は29日,国民党の提示条件を受け入れると表明した。一方,貢献党は31日に国民党と協議を行った。その際,貢献党は,国民党の3条件を受け入れたうえで,

  • (1)1997年憲法を下敷きに憲法改正案を起草し,改正の迅速化を図るかどうかの国民投票を実施する,
  • (2)カンボジア政府との間で調印し,親軍政党が破棄を求め政権の火種となってきた,陸上国境や大陸棚の領有に関するMOU43とMOU44について国民投票で維持の是非を問う,
  • (3)誇り党が関与したとみられる2024年の上院選挙共謀疑惑やカオクラドン土地紛争に関する法的手続きを迅速に進める,

との提案を行った(注2)。

 9月3日,誇り党と国民党との間で,以下の5つの条件に基づき,国民党がアヌティンを支持することで合意,公表された。

  • (1)新首相は議会での所信表明演説から4か月以内に下院を解散し,総選挙に道を開かなければならない,
  • (2)憲法第256条による憲法改正前に国民投票が必要だと憲法裁判所が判断すれば,新内閣は国民から直接選出された憲法起草委員会を設置するための憲法改正に関する国民投票を実施しなければならない。国民投票は総選挙に遅れることなく実施されなければならない,
  • (3)2017年憲法改正前に国民投票が必要ないと憲法裁判所が判断すれば,国民党と誇り党とともに,新内閣は国民から直接選出された憲法起草委員会による新憲法の起草を可能にする憲法改正を下院の今任期中に行わなければならない,
  • (4)新首相が4か月以内に下院を解散することを保証するために,誇りの党は多数派内閣を形成するための工作を控えなければならない,
  • (5)国民党は野党のままで,新内閣を精査することを約束する。国民党のすべての議員は大臣の地位を引き受けない(注3)。

 ここで,この合意が誇りの党と国民党との間のもので「内閣を構成する他政党は拘束しない」という点に留意しなければならない。親軍2政党など他政党は,憲法改正に際し,この点を強く主張することになるだろう。

 9月5日,下院の首班指名選挙で,誇り党のアヌティンが過半数を大幅に上回る311票を獲得し,首相に選出された。これには,誇り党,国民党,タイ団結国家建設党,クラータム党,国民国家の力党以外に,貢献党の9人,タイサーンタイ党の6人,民主党の4人などが含まれる。貢献党のチャイカセムは152票にとどまった。彼に投票したのは貢献党,タイ国民発展党,民族党などである。27人は棄権した。これは,民主党20人,タイ団結国家建設党3人,アヌティン本人,正副議長などである。政権には親軍2政党も含まれ,タクシン包囲網が敷かれた感がある(注4)。

 政権発足後に,政権が最初に注力するのは補正予算編成だろう。タイの会計年度は10月1日から翌年9月30日まで,2026年度予算は,9月2日,上院が予算案を可決,成立した。来る選挙に向けて,誇り党などの政党は自らの利益につながる「ばらまき」に向けた補正予算編成をしていくことだろう。次いで,政権はその理念たる総選挙前の憲法改正,その後の新憲法制定をめざすが,これは困難な道のりだろう。国民党は,不敬罪廃止に導く憲法の規定,首相失職や政党解党を繰り返す憲法裁判所の改革をめざすが,保守派はこれらを容易には認めないだろう。

 9月10日,上下両院議員の申立に対し,憲法裁判所は,まず,議会に新憲法制定権限があるかに関し,5対2で,その権限を認めたが,制定の是非は国民投票で承認されなければならないとした。また,憲法起草委員会議員の直接選挙は認められず,議員は議会などの関与によって選出される必要があるとした。次いで,同裁判所は,6対1で,新憲法の起草手続きを進めるにあたり,3段階の国民投票を経る必要があるとの判断を示した。国民投票の内容は,1回目が「新憲法起草の是非」,2回目が「起草の方法及び基本原則」,3回目が「起草完了後の憲法案の承認・否認」。1回目と2回目は同時に実施することが可能としている(注5)。

 この判断を受けて,同日,ナタポン国民党党首は,記者会見を開き,国民党は,選挙によって選出された憲法起草委員会による新憲法制定を含む憲法第15章(改正)の改正案を議会に提出済みで,誇り党にも早期の提出を求めた。そして,今会期中に,議会で憲法改正案を承認し,総選挙と同日に第1回の国民投票を行い,「新憲法を制定すべきか」と「第15章の改正に基づく起草方法・内容を承認するか」と問うとした。これに対し,誇り党は,憲法制定に向けた国民投票手続きを最重要課題と位置づけ,党内に作業部会を設置し,憲法改正案の起草・議会提出に向けて動き出した段階である(注6)。

 第1回の国民投票は現行憲法第15条に基づいて行われる。憲法第256条6項は,「憲法改正は現有上下両院議員の過半数の賛成により承認される。この条件の下,大臣,下院の議長と副議長を有さない全政党の下院議員の20%以上が賛成しなければならず,上院の現有議席の3分の1以上の上院議員が賛成しなければならない」と規定している。今回,国民党が与党にならなかったこと,すなわち,大臣,下院の議長と副議長を有しないことはこの規定に関連するのかもしれない。また,上院議員は政党に所属できず,その党派性は明確ではないが,2024年の上院議員選挙の結果に関し,日本経済新聞とJETROは,各々,誇りの党に近しい議員が123人(全議席の61.5%),前進党(現・国民党)に近しい議員が18人(同9%)と推測している。今回,国民党が,首班指名で,誇りの党を支持したのはこの点が大きかったのかもしれない。さらに,同条8項は,第1章(一般規定),第2章(国王),第15章などに関しては,国民投票を行い,国民の同意を得ることを求めている。現行の国民投票法の定足数は有権者の過半数,同意要件は有効投票の過半数となっている(注7)。

 憲法第1章に含まれる第2条は,「タイは国王を国家元首とする民主主義体制を採用する」と規定している。憲法には不敬罪に関する規定はないが,2024年1月,憲法裁判所は,前進党が2023年の総選挙で刑法第112条(不敬罪)の改正を選挙公約としたことは憲法第2条違反であり,違憲であるとの論理展開を行っている。国民党が不敬罪改正を選挙公約に掲げるなどすれば,憲法改正に関し,上院議員の支持を得るのは難しくなるだろう。上院は定数200,行政,教育,公衆衛生など20の職業分野ごとに立候補者が10人を互選する職域代表である。その結果,上院議員の大半はエスタブリッシュメント層,保守層となる。

[注]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3999.html)

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