世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
トランプ相互関税を号砲に関税引き上げ競争の懸念:WTO設立30年の節目に問われる日本とASEANの役割
(国士舘大学政経学部 教授・泰日工業大学 客員教授)
2025.08.11
相互関税政策のインパクトと各国の対応
2025年4月,トランプ米政権が発表した「相互関税」政策は,既存の国際貿易秩序を根底から揺るがす措置として,各国に強い衝撃を与えた。そして同年8月1日,米国は大統領令により,75カ国超を対象に,国別に異なる関税率(10〜41%)を課す制度を正式に導入した。これはWTO協定の根幹をなす最恵国待遇(MFN)原則に明確に違反するものであり,国際貿易の多国間主義に対する明白な挑戦である。「相互関税」適用という経済的威圧の手法を用いた米国は,もはや自由貿易体制の守護者ではない。
こうした状況にあって,米国市場から締め出された中国に代表される各国製品が第三国市場へと殺到することで,各国が自国産業保護のため,WTOの上限税率となる譲許税率を上回る関税措置を講じる誘因は確実に高まっている。日本経済新聞(2025年8月1日付)は「ベッセント米財務長官が『世界は中国の過剰生産を吸収しきれない。他国も関税を引き上げざるを得ない』と述べ,保護主義の連鎖を予見した」と報じた。実際,中国製の鉄鋼,化学製品,機械部品などがASEAN諸国へ流入し,地場産業への深刻な圧迫要因となりうる兆候も現れている。
WTOの譲許税率を上回る関税措置の導入を後押しするのが,紛争解決制度(DS制度)の機能停止である。2019年以降,上級委員会は実質的に麻痺しており,ルール違反に対する拘束力ある制裁が不可能な状態が続いている。この制度的空白は「実効的無秩序」を招きかねず,WTOを基盤とした自由貿易秩序そのものが崩壊の瀬戸際にある。
とりわけ脆弱な途上国とASEANの危機
このような国際貿易秩序の不確実性が増すなかで,最も大きな影響を受けるのは,経済規模が小さく外需に依存する中小規模の開発途上国である。国内市場が矮小であり,輸出主導で成長を遂げてきた国々にとって,関税引き上げの連鎖はそのまま成長基盤の喪失を意味する。
とりわけ,輸出依存度が高く,サプライチェーン統合の要となってきたASEAN諸国にとって,現在の通商環境は国家経済の根幹を揺るがす危機となり得る。
2025年はWTO設立30年という節目の年であるが,現実には,その理念と制度の根幹が脅かされる年となった。非差別,透明性,法の支配という多国間体制の三原則は,米国の通商政策により制度疲労と形骸化を余儀なくされている。
このような中で,日本とASEANは,地域的な包括的経済連携協定(RCEP)および環太平洋パートナーシップに関する包括的及び先進的な協定(CPTPP)という広域経済連携の実務的運用を経験してきた主体として,自由貿易秩序の維持・再建に向けた国際的責任を担う立場にある。
米国抜きのWTO改革戦略と「ASEAN-X」的アプローチ
現実的に見て,現トランプ政権下において米国をWTO改革のプロセスに巻き込むことは困難である。むしろ,米国を除外した枠組みでの制度再建を志向する必要がある。日本は,WTOの機能回復に向け,主体的かつ戦略的なリーダーシップを発揮すべきである。
その際,ASEANの協力を得,「ASEAN-X」方式に倣い,米国には準備が整った段階で参加を容認する柔軟なアプローチを導入することが一つの方策となる。このような「開かれた枠組み」により,将来的に米国が自由貿易秩序に回帰した際の参加を排除しない柔軟性を保ちつつ,制度的空白の放置を回避することができる。
保護主義と重商主義への傾斜が顕著な米国を説得する時間的猶予はもはや残されておらず,「巻き込む」ではなく「先に進める」選択こそが現実的な解決策となる。
危機の時代における日本の責務
WTO設立30年の節目にあたる本年,WTO体制の危機は現実のものとなっている。日本はEUやASEAN諸国と連携し,多国間主義に基づく自由貿易秩序の再構築に向けた国際潮流の構築を主導すべき局面にある。
米国の双務主義的交渉成果を,いかに多国間ルールへと昇華させ,制度的整合性を確保するか。その制度設計力こそが,日本の経済外交における力量として問われている。
もし,この機を逸して保護主義の連鎖を許容すれば,グローバル経済の中核を担ってきたASEAN諸国は,需要低迷と分断による経済停滞の時代に突入しかねない。そしてその影響は,単に地域にとどまらず,世界経済全体に波及することは必至である。自由で開かれた貿易秩序の維持と再建は,待ったなしの課題である。
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