世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3393
世界経済評論IMPACT No.3393

マレーシアにおける「ビジネスと人権」の位置

池下譲治

(福井県立大学 客員研究員・国際貿易投資研究所ITI 客員研究員)

2024.04.29

 国際ビジネスにおける人権への対応が国家のみならず企業にとっても無視できない時代が訪れている。ブレイクスルーとなったのは2011年に国連人権理事会で採択された「ビジネスと人権に関する指導原則」だ。「指導原則」は,「国家の人権保護義務」,「企業の人権尊重責任」,「人権侵害への救済のアクセス」の3つの柱から構成されている。各国はこれを踏まえた国別行動計画の策定が促されており,多国籍企業は人権デューデリジェンスの実施が求められている。

 こうした中,米国では,強制労働によって生産された製品の輸入を禁じる1930年関税法307条に基づく違反商品保留命令(WRO)の発令が増えているほか,中国・新疆ウイグル自治区が関与する製品の輸入を原則禁止するウイグル強制労働防止法(UFLPA)が2022年6月に施行されている。一方,欧州委員会でも2022年9月,強制労働による製品の輸入禁止法案を公表するなど,特に,グローバルなサプライチェーンを有する多国籍企業は待ったなしの対応を迫られている。

 実は,対応を迫られているのは企業だけではない。マレーシア政府は2021年11月,同国として初めてとなる「強制労働に関する国家行動計画(NAPFL)2021~2025」を立ち上げた。これに伴い,2022年3月には,ILOの「強制労働条約(1930)2014年議定書」を批准している。これには,人的資源副大臣が2022年7月28日のマレーシア議会に於いて,「過去2年間に米WROの発令対象となったマレーシア企業は8社に上る」と述べたように,中国を除けば世界でもっともWRO発令対象企業を生んだ国として,「レピュテーションリスクをはじめ外国からの投資にも影響が出かねない」ことを懸念する声が上がった経緯がある。

 「ビジネスと人権」の観点から,問題と思われるのは,マレーシアにおける強制労働を含む人権侵害には,外国人労働者に対する国内法上の問題とともにその弱い立場に付け込んだ仲介業者や政府高官による欺瞞や汚職の存在がちらついていることだ。さらには,歴史的な社会構造上の問題もある。国際労働機関(ILO)によると,マレーシアには2022年現在,約200万人の外国人労働者が雇用されている。これは同国の総雇用者数の約13%に相当するが,不法滞在の外国人労働者も加えると合計で少なくとも300万人以上に膨れ上がる。受入国別ではインドネシア(約35%)がもっとも多く,バングラデシュ(約29%),ネパール(約15%),ミャンマー(約8%)と続く。その結果,2022年第1四半期現在,製造業では4人に1人,サービス業では実に約4割を外国人労働者が占めるに至っている。一方で,各種調査によると,不法就労外国人の中には,雇用契約期間中に合法から不法就労者となった者も多い。マレーシアの雇用法では,雇用主がマレーシア人従業員との契約を終了するには,他のすべての外国人労働者の契約を先に終了させる必要があるなど,外国人労働者にとって差別的な規定があることも事実だ。

 より深刻な問題として,出国前に雇用が約束され,合法な就労ビザを使ってマレーシアに人身売買されるという膨大な数の求人詐欺が起きている。2023年8月に発表された国連国際移住機関(IOM)の報告書によれば,マレーシアの外国人労働者は,パスポートの没収を含む雇用プロセス全体を通じて,搾取,虐待,非倫理的な採用慣行に直面していることが原因で不法就労者になっている可能性がある。事態を重く見た政府は不法就労者であっても審査を通して合法な労働者として認めるプログラム(Workforce Recalibration Program 2.0)を当初予定から1年延長し,2023年末まで実施するといった救済策を講じている。一方,2023年1月1日に発効した「2022年雇用改正法」(「改正法」)では,外国人労働者に関する雇用主の管理責任が強化された。さらに,強制労働に至らしめる行為を「犯罪」として扱い,関与した雇用主には罰金または懲役刑を科すことで従業員が職場から離れることを防ぐようにした。これらは,全体に良い方向に向かっていると言えるが,中には非常に曖昧な規定が含まれていることに注意が必要だ。たとえば,雇用差別紛争に関して,労働局長は「従業員と雇用主との間の紛争を調査し,決定,命令を下す」権限を付与されるとある。しかし,専門家によれば,どのような差別が取り扱われるのか。また,局長はどのような命令を下すことができるのか,まったく示されていない。ここで,「改正法」を国際的に認知された労働慣行規範であるETIベースコードに照らし合わせてみると,概ね,符合していると言える。しかしながら,外国人労働者が組合を結成したり,代表に選ばれたりすることは依然として禁じられているほか,組合活動に参加した外国人労働者を解雇するなどの差別行為を行った雇用主に対して政府が罰することはほとんどないことがこれまでも報告されている。

 また,米商務省の「2023年人身売買報告」によると,マレーシアは人身売買撲滅への取り組みに関して,2022年までは4段階中最低レベルのティア3だったが,2023年はさまざまな取り組みが評価され,ティア2ウオッチリストへと一段階格上げされた。政府は,次の課題として,強制労働などの被害者を特定するための標準作業手順書(SOP)を全国的かつ体系的に実施していくことが求められる。

 ところで,「人権保護の義務」を謳う前に,マレーシアにはまだ批准していない重要な条約が2つ残っている。ひとつは,移民の就労に関して,国籍,人種,宗教又は性別による差別なく,自国民に適用される待遇と同等な待遇を適用することを約束することなどを規定した「1949年雇用移住条約(改訂)(第97号)」である。そして,「人種差別撤廃条約(ICERD)」だ。本条約に関しては,2018年にマハティール氏が政権に返り咲いた際に署名・批准を表明したところ,マレー系住民の猛反発に遭い,政府は結局,批准しないことに決定した苦い経験がある。ICERD第2条は,アファーマティブ・アクション政策に期限を設けているが,これが,マレー系優遇の特権に影響を及ぼしかねないとして危機感を煽ったためだ。

 最後に,「アファーマティブ・アクション政策は人種のみではなくニーズに基づくべき」と主張するアンワル首相がどこまで,両条約の批准に迫れるか,期待を込めて見守っていきたい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3393.html)

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