世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
資本主義と経済学
(北星学園大学 名誉教授)
2023.08.07
何世紀にもわたって人間は,生存の危機に対応するため伝統に基づく慣習やしきたりに従って,親から子,世代から世代へと必要な仕事を後世に伝えていくことで,みずからの存続の確証を行ってきた。
古代エジプトではすべての人間は,宗教の教えにより父親の職業を受け継ぐ義務があり,もし職業を別に変えようものなら,それは神に対する最も恐ろしい冒涜とされた。こうして人間は,何世紀もの間,生存の問題を,過去の社会制度や習慣によって解決してきたのであり,「経済学」のような特別な研究分野を必要としなかった。社会の現実的な習慣や取り決めによって動く限り,神学者,政治学者,政治家,哲学者,歴史家は必要であっても,社会を理解しやすくする役回りの経済学者は,必要ではなかったのである。しかし,資本主義の勃興は,それはそれまでの個人が全く経験したことのない複雑な社会的つながりを持った現象の到来であった。それは,旧来に生きた人々にとっては,生存の脅威をもたらすほどの影響を与えた。例えば経済取引は交換取引であり,金銭の交換も伴うが,この取引はギリシャ・ローマ社会以前から存在していた。しかしそれは日常品のわずかな取引であって,資本主義経済で起こった見知らぬ他人からとの大規模で複雑な取引関係とは全く異なるものだった。
道徳哲学者アダム・スミスの「国富論」は,なぜあれほどの大きな影響を与えたのだろうか。アダムス・スミスは資本主義に戸惑う国民大衆の恐怖や懸念を打ち払う目的で,「国富論=諸国民の富」を書いたのである。この大著の最初の項で,肉屋やパン屋,酒屋から食を得るのは,彼らの博愛心によるのではなく,彼らの利得追及心によるものと説いた。これらは自由な競争心によって行われるから,バラバラな結果を招くように見えるが,その活動は神の見えざる手によって導かれ,全体的には安定した社会を実現すると強調した。このような考え(教え)は,伝統的社会の桎梏の視野しか持たない大衆の心を動かし,また急激に発展する産業社会の現実を見た。こうして資本主義は,産業革命の原動力として誕生し,今日に至るまでの300年の間,世界最大の制度的支配を持つ資本主義の原理となったのである。
アダム・スミス以降の経済学は,数多くの著名な経済学者を生み出しただけでなく,様々な経済事象を案内しようとするエコノミストたちの活躍の場を生んだ。しかし強力な制度的支配力を保有した資本主義制度も,この20世紀後半になってこのまま推移すれば,その基盤が崩壊し,資本主義はまもなく終焉するかもしれないという言説が数多く流布する時代となってきた。その証拠に「資本主義」という用語そのものをテーマとする論文や研究が急激に増加していることに表れている。このような現象が,オイルショック,リーマン・ショック,ウクライナ戦争,コロナ感染症の世界的伝播,など,今世紀を大きく揺るがす危機の集中的発生も影響を与えているかもしれないが,実は,資本主義制度そのものの衰退を示す現象が多くみられるようになっているのが最大の要因である。
中で最大の注目点は,経済的成長力が明らかに衰えたことである。先進国アメリカの経済について経済学者ロバート・ゴードンは「800年の成長」の中で2100年にはアメリカの経済は,開拓期のゼロ成長率に回帰すると述べ物議をかもしている。アダム・スミスの予測をはるかに超えて発展した今日の資本主義経済の問題点を明確に指摘したのが,フランスの統計学者トマ・ピケティである。トマ・ピケティは世界的ベストセラー「21世紀の資本」を書いて世界に衝撃を与えた。彼は現代の資本主義が三つの法則を発見したと述べ,第一は,資本分配率の側面,第二は,資本所得比率の側面,第三は,資本収益率>経済成長率の側面を分析し,21世紀の資本主義は格差拡大の不合理な社会になると論じた。この三つの法則は現実に集積された経済データから新SNA方式に従って算出しているが,彼は,フランスの統計研究所の研究員として膨大なデータを読み,それを数量的に解析した優れた統計学者であったことは注目されてよい。資本主義後年に発生した大不況のアメリカ経済の要因は,大経済学者ガルブレイスですら株価の暴落によるとしか説明できなかった。実はスミスの時代は,資本主義の経済制度の分析に必要な基本データは,ほとんど存在しなかった。ピケティの「21の資本」はこうしたスミス以来の資本主義解明の欠陥を大きく補うものである。長期の労働力停滞によって資本蓄積に駆逐され,資本格差(所得格差ではない)の拡大する世界になることが詳細なデータ分析のもとで示され,説得的だ。
しかし,他方で視点を考えてみると,アダム・スミスの人間社会の歴史的研究,そして資本主義が持つ現実社会の中の広範で複雑な分析側面はあまり語られていない。しかも不思議なことに彼の「21世紀の資本」ではSDGsや技術革新問題など現代資本主義の喫緊且つ困難な問題は,どこにも語られていない。「自然,文化,不平等」のタイトルの続編で解明が期待されるが,このような分野はピケティのみならず,勿論経済学分野だけではなく,広範な専門家や研究者の協同的研究の取り組みが必要不可欠だ。そうでなければ「21世紀の資本」の姿を,先史の人々同様に現代人も具体的に目に浮かべることは出来ないのではないだろうか。
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