世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2382
世界経済評論IMPACT No.2382

苦渋の決断を迫られたモディ政権:農業関連三法の撤回

小島 眞

(拓殖大学 名誉教授)

2021.12.27

 インドは押しも押されもしない世界有数の農業大国である。緑の革命によって,1980年代末に穀物自給を達成しており,13億強の人口を抱えつつも,ここ数年,インドはタイを抜いて世界最大の米輸出国でもある。とはいえインドの農業部門は労働力全体の45%を抱えながら,GDPに占めるシェアは約15%でしかなく,農民の多くは低所得状態から脱却できずにいる。当初,モディ政権は農産物の最低支持価格の引き上げを通じて2022年までの農業所得を倍増させるという目標を打ち出したものの,絵空事に終わっている。

何故,農業関連三法が導入されたのか

 農業所得向上の実現を図るための筋道は,①土地生産性の向上,②農業付加価値に占める農民のシェア拡大(農業サプライチェーンの改革),さらには③非農業部門の雇用吸収拡大(農業から非農業部門への労働移動⇒農業労働の減少⇒農業労働生産性の向上)である。農業規模が低下する中,協同組合や契約農業を通じた農地の整理統合,高付加価値農産物への作付け転換,さらには規制緩和を通じた農業サプライチェーンの改善が不可欠とされる。

 従来,インドでは農産物の配給制度を維持すべく,農産物マーケット委員会(APMC)法に基づいて,農産物は州政府APMC支配下の指定市場(マンディ)を通じてしか販売できず,そのため農民は自ら農産物の出荷先を選択できるマーケティングを行う自由を奪われてきた。そうした束縛を打破すべく,昨年9月,まさにコロナ禍への対応に追われる最中,3本の農業関連法案が議会で可決され,直ちに大統領の承認を得て成立した。具体的には,①マンディ以外でも自由に農産物の販売を可能にする「農産物取引・販売(促進・円滑化)法,②農業法人に対して農産物販売の事前契約の道を開く「価格保証及び農地サービスに関する農民(地位向上・保護)法」,さらには③食糧貯蔵に対する規制を非常時にのみに限定し,食糧の生産,供給,配給に対する規制緩和を目指した「重要物資(改正)法」である。

農民団体の執拗な抵抗

 農業関連三法の成立は多くの農民の自由度を高め,農業サプライチェーンの改善に寄与することが期待されたのであるが,これに猛反発したのが農業先進地帯であるパンジャーブ,ハリヤナ両州,それにウッタル・プラデーシュ(UP)州西部の富裕農民である。最低支持価格(MSP)が適用される政府の食糧調達がすべてAPMCを通じてなされる中,そうした機会を活用できる農民は全体のわずか6%ほどであるのに対して,政府が調達する小麦の60%,米の3分の1を占めているのが上記の富裕農民であり,彼らは農業関連三法がMSPの撤回につながり,それまでの既得権が脅かされることを危惧し,首都ニューデリー周辺で執拗な抗議運動を繰り広げてきた。その背後には従来の制度の下で多大な既得権を享受してきたAPMC関連の政治ボスやマンディ仲買人の策動も見え隠れしている。

 モディ政権は,農民団体との交渉において,農業関連三法の修正には応じるものの,①農業関連三法の撤回,②MSPの法的保証は認められないとの姿勢を貫いてきた。今年1月には最高裁より農業関連三法の実施を猶予すべきとの勧告に基づいて,モディ政権は向こう1年半にわたって上記三法の実施を猶予するとの提案をしたが,それでも反対派農民は強硬な姿勢を崩さず,膠着状態が続いてきた。そうした中,ついに今年11月19日,モディ政権は農業関連三法の撤回を発表し,同月29日の冬期国会において農業関連法撤回法案が可決された。ちなみに農業関連三法に対して強い抵抗運動を示してきたのは農業先進州の農民であり,それ以外の農民の多くは上記三法に必ずしも反対しているわけではない。モディ政権が一部農民の抵抗に屈したことは,経済改革の後退というイメージを与える結果となった。

農業関連三法撤回の背景と今後の展望

 ここにきてモディ政権が農業関連三法の推進を断念した背景として,次の2点が挙げられる。一つには,来年2-3月にパンジャーブ,UPを含む5州で州議会選挙が控えていることである。ちなみに人口2億を超えるUP州では,中央政府と同様,インド人民党(BJP)が与党の座にある。農民の抵抗を引きずったまま,州議会選挙に突入することになれば,選挙戦略上,得策ではないとの判断が働いたことは容易に想像されるところである。

 もう一つの理由は,BJPの支持母体である民族奉仕団(RSS)においてシク教との対決は回避すべきであるとの基本的な価値観が根強いことである。そこではイスラ―ム教徒に対する姿勢とは逆に,シク教徒とヒンドゥー教徒と同胞であるとの考え方が受け入れられている。パンジャーブ,ハリヤナ両州はシク教徒が支配的な地域であり,今回,農民の抵抗運動には陰に陽にシク教徒側からの手厚い支援が寄せられている。そのためシク教と対立する構図を回避したいとの観点から,農業関連三法の撤回に踏み切ったというわけであるが,その撤回を発表した11月19日はシク教開祖ナーナク(1469~1538)の生誕記念日でもあった。

 農業関連三法の撤回に伴い,農民団体はこれまでの抗議運動を取り止めるとしているが,MSPの法的保証を求める主張は継続するとしている。MSPの法的保証は農産物価格のコストプラスの枠組みを永続させることになり,今後のインド農業に禍根を残すことにもなる。農業関連三法の目指した方向性は正しかったにせよ,事前に利害関係者との十分な意思疎通を図らずに成立を急いだために,結局は撤回を余儀なくされることになった。今後,捲土重来を期して,農業関連三法が装いを新たに再び導入される可能性が消えたわけではない。農民の既得権を抑えつつ,いかにしてインドの農業改革を進めていけるのか,モディ政権の政治的手腕が問われている。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2382.html)

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