世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1769
世界経済評論IMPACT No.1769

ドイツ憲法裁判所のQE(量的緩和策)違憲判決:ECBとEU存立の基本問題に

田中素香

(東北大学 名誉教授)

2020.06.01

 ドイツ憲法裁判所が去る5月5日,ECB(欧州中央銀行)の金融政策,具体的には2015年に開始されたQE(量的緩和策。EUでは「資産購入プログラム」と呼ぶ)の一部が違憲(ドイツ憲法に違反)の疑いがある,という判決を下した。ECBの行動の自由を制約する判決であり,またEU司法裁判所(CJEU)が2018年に下したQE是認の判決に反するものだけに,話は深刻である。

 ECB,ユーロ圏,EUのあり方に短期的にも長期的にも重大な影響を及ぼす可能性がある。判決のニュースに緊張と警戒感がEU全体を捉えたのは当然であった。

 判決はQEそのものを違法とするのではないが,QEが「比例性」を満たしているかどうかをドイツの諸機関(ドイツ政府,ドイツ連邦銀行)が確認し3カ月以内に憲法裁に通知せよ,満たしていないらばドイツ連銀はQEに参加できない,というのであった。

 EUの権能の行使は補完性原則と比例性原則によって規律される(EU条約第5条)。その比例性原則に関わらせて判決が構成されている。比例性原則とは,EU機関の行動を実現するための手段の行使は目的の実現に必要な限度を超えてはならない,というのである。目的達成にとって必要な範囲で(目的に比例して)のみ,EU(ないしEU諸機関)の行動は正当化される。これは,EU(諸機関)の権限濫用を防ぐ原則としての意義をもつ。

 ECBの唯一の目的は物価の安定であり,それが達成されている限りにおいて他の経済政策目標を支援できる。ポスト・リーマン危機以降,とりわけユーロ危機以降,ユーロ圏は2%近傍というECBの物価上昇率目標に届かない期間が続き,ECBは2015年初めにQEを採用,インフレ率目標達成のために動員したが,依然として目標に届かない。日本銀行と同じである。EU司法裁判所はこの観点から2018年に,ECBのQEは合法と判決を下している。

 ドイツ憲法裁の「比例性」の解釈はECBのそれと違って独特である。ECBはQEの顕著な政策効果を検討し,それと政策目標達成とのバランスを考慮せよ,というのである。憲法裁のいう政策効果とはQEのもたらす低金利ゆえに貯蓄者と保険契約者に損失を与えた,ゾンビ企業を延命させたというようなことである。ドイツではQEによる金利低下により「預金金利が消えた」,「ドラギ前総裁がドイツ人の銀行口座から金利を吸い上げて損害を与えた」などと非難する声が高まった時期があった。憲法裁はそうしたドイツの事態を重視したのであろう。

 憲法裁のいう「比例性」とは,つまり,ECBのQEは副作用のリスクとつり合っていない恐れがあるということである。違法の可能性があるので,「比例性」の検討をECBが確実に行ったかをドイツ政府とドイツ連銀が検討し,ECBが3カ月以内に政策が適法である根拠を示さなければ,ドイツ連邦銀行のQEへの参加は中止されるとしたのである。

 以上の説明で問題の範囲の広さと深さを読者に理解していただけるであろう。問題は数多い。

  • ①ECBもユーロ圏加盟国の中央銀行も独立性を保証されていて,外の指示は受けないとされているが,憲法裁はドイツ政府と並べてドイツ連銀に外から指示した。条約違反ではないのか。
  • ②ユーロ圏加盟国の中央銀行の金融政策はECB政策理事会で議論した上で統一して発動される。それをユーロ加盟国の憲法裁判所が批判し,自国に適合的なように規制しようとすれば,ECBの統一的な金融政策は成り立たない。
  • ③「比例性」原則の解釈が独自であり,EU条約に適合的か問題がある。
  • ④ドイツ憲法裁の上位機関であるEU司法裁判所の2018年の判決は間違っているというのだが,EU条約の規定により,EUレベルの機関であるECBの行動の合法性の判定はEU司法裁判所に委ねられている。憲法裁の判決は条約違反ではないか。
  • ⑤EU加盟国の憲法裁判所がEU司法裁判所の判決を覆すことになれば,EUの法秩序は成り立たず,「法の共同体」であるEUは崩壊するしかないであろう。

 ラガルドECB総裁は「すべての国(ユーロ圏諸国)の中央銀行は,ユーロ圏の金融政策の決定と実施に全面的に参加すべきだ」,「ユーロ圏の各国中銀は独立しており,政府からの指示を受けることはできない。これは条約で定められている」と述べて,憲法裁の判決にとらわれない姿勢を示した。しかし,ドイツ連銀が参加できない可能性は残る。

 コロナウイルス・パンデミックに見舞われたヨーロッパで経済は今年大きく落ち込む。とりわけ南欧のイタリア,スペインのダメージは非常に大きく,また国際観光への依存度が高いので,立ち直りにもとくに困難をきたすかもしれない。ECBは年内に7500億ユーロまでのQE実施を3月18日に発表して,国債など債券の大規模購入によって金融市場を安定させ,またユーロ圏諸国の財政赤字ファイナンスにも安心感を与えていた。来年以降もECBの活動により,ユーロ圏経済を支え,ユーロ圏の金融不安定化や万が一に生じかねないユーロ圏離脱のような緊急事態を防がなければならない。そのQEがドイツ憲法裁の判決で制約されれば,ユーロ圏経済は大変なことになりかねない。

 5月5日の判決はコロナ危機に対抗する2020年のQEをターゲットにしたものではないが,判決によってドイツ連銀がQEに参加できなくなれば大変なことになる。また,この訴訟を起こした1750人ものドイツ人の原告団が勢いづいて今年や来年のQEの違憲訴訟を憲法裁判所に起こす可能性も排除できない。

 「EUの法秩序に対して手榴弾を投げ込んだ」「EUへのミサイル攻撃」という評価はEU諸国の代表的な新聞等のタイトルになった。また,ブレグジットを推進した英国の右派ポピュリスト政党などのスローガンを援用して,「ドイツに主権を取り戻す(take back control)決定をした」という批判もあった。

 以上から分かるように,憲法裁判決の問題点は大きく2つある。ECBの金融政策の将来への不安とEU法秩序の混乱である。これら2点について,ECBやEUはどう対応すべきなのか。ドイツ世論の動向なども観察しながら,さらに立ち入った考察が必要である。字数の限度に達しているので,別稿で引き続いて議論したい。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1769.html)

関連記事

田中素香

国際経済

国際政治

欧州

最新のコラム