世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1525
世界経済評論IMPACT No.1525

日ソ・シベリア開発協力史事始め:1960〜70年代に躍動した民間経済外交

金原主幸

(国際貿易投資研究所 客員研究員)

2019.11.04

 2国間関係の文脈で政経分離という言葉を使う場合,「政治問題があっても経済的利益は侵されるべきではない」とか「政治的な目的のために経済関係を利用すべきではない」といった論調が多いが,戦後最悪と言われる現在の日韓関係や激しい反日デモ・暴動に襲われた当時の日中関係を思い起こせば,政経分離の実行が如何に困難なことであるか容易に理解できる。

 しかしながら,戦後の日本の民間経済外交の歴史を振り返ってみると,かなり長期間にわたり財界主導による戦略的な政経分離を前面に押し立てた経済外交の実例があった。それは,シベリアの資源エネルギー開発を舞台とした日ソ経済協力プロジェクト形成の歴史である。その試みは1960年代後半から始まり,70年代にピークを迎え,ソ連崩壊を待たずに80年半ばには事実上,終息した。

 日本を取り巻く当時の国際情勢は,まさに東西ブロックが政治的・軍事的に真っ向対から対立する冷戦の最中であった。日本にとって最大の軍事的脅威はソ連であり,そのために日本は日米安保体制に基づく米国による核の傘下にあった。そのような緊迫した状況下にありながら,日ソ両国間に「日ソ・シベリア開発協力プロジェクト」(以下,日ソ・プロジェクト)と称されるいくつかの大規模なナショナル・プロジェクトが,それぞれ数年間にわたる交渉を経て実現したのである。

 わが国が政治・外交関係に困難な課題を抱えている相手国と,個社ベースで政経分離的な発想から目立たぬよう商取引を行った事例は,ソ連以外の国にも若干散見されるが,日ソ・プロジェクトの場合ほど大がかりで継続的な取り組みとして展開されたケースは他にはないと言ってよい。当時の国際環境に鑑みれば実に大胆であり,また様々な意味においてリスクを伴う試みでもあった。筆者は,日ソ・プロジェクト組成の最終段階だった1970年代末から80年代初めにかけ,末端の一兵卒として対ソ交渉の実務に係わった。そこで本欄では,日ソ・シベリア開発協力を巡る歴史的経緯とその特異性について明らかにした上で,このような試みが画餅に終わらずに一定の成果を上げた要因について分析し,最後に,現在進行中の官民連携による日露経済協力とも対比しつつ,今日的視点から改めて評価してみたい。

日ソ・シベリア開発協力の特異性

 1960年代初頭,シベリア開発を推進したいソ連からの熱心な誘いに応じて財界が協力に乗り出した動機は,もっぱら経済的な関心とニーズだった。日本経済は高度成長期に入っており,エネルギー資源・原材料の輸入需要は増加の一途をたどることが予想されていた。また,同時にシベリアは,資源開発に必要な建設機械・輸送機器等の日本からの輸出市場としても有望視されたのである。まず初めに,日ソ・プロジェクト形成過程そのものが,通常の商取引の枠を超えた特異な性格を帯びることとなった基本的な要因として3点指摘しておきたい。

 第1点は,当時の両国の政治・外交関係である。1956年の「日ソ共同宣言」により外交関係は回復したものの,北方領土は返還されず平和条約は締結されぬまま冷却した関係が続くなか,シベリア開発協力は日ソ双方が利益を見いだし得る殆ど唯一の分野となった。すなわち,シベリア開発に必要な資本財,技術さらには資金を提供できる天然資源に乏しい日本と,膨大な天然資源を保有しながら開発のための資本財や技術や資金を欠くソ連との間に,経済的な相互補完性が見いだされたのである。

 第2点は,対ソ交渉のための強固な制度的形態である。1965年に財界によって設立された日ソ経済委員会が,ソ連側カウンターパートの外国貿易省との唯一の交渉窓口としての機能を果たした。これは,国家計画経済だったソ連が外国貿易についても国家独占体制であることに対する対抗手段であった。今日,わが国経済界には,殆ど全ての主要国・地域との間に2国間委員会(事務局は経団連または日本商工会議所)が設置されているが,その中で相手国との大規模案件の具体的な交渉を一元的に担った経験のある2国間委員会は,筆者の知る限り,後にも先にも日ソ経済委員会のみである。

 第3点は,日ソ協力の金融面である。日ソ・プロジェクトに係わる対ソ輸出への公的信用供与方式が,当初のサプライヤーズ・クレジットから1970年代に入り,直接ソ連側に融資するバンク・ローンへと進化したことが大きな意味を持った。当時としては巨額なバンク・ローンの供与(74年から76年の3年間だけで約6,000億円)によって,日ソ貿易全般が大きな刺激を受け促進されたばかりでなく,シベリア開発協力の交渉進捗状況が,しばしば両国経済関係全体の状況を示すバロメーターとなったのである。

先鞭をつけた大物財界人による訪ソ・ミッション

 日ソ国交正常化のわずか5年後の1961年に、初の閣僚クラスの訪日となったミコヤン副首相が日本の経済界に対してシベリア開発への参画を呼びかけた。同副首相は後に「赤い商人」として注目されることになるが,この訪日時の呼びかけに呼応するかのように60年代前半には,日本の経済界を代表する大物財界人を団長とするミッションや関連業界別のミッションが相次いで訪ソした。

 なかでも特筆すべきは,河合ミッション(1962年),永野ミッション(1965年)および植村ミッション(1965年)である。河合氏はシベリア開発に係わる中核企業となる小松製作所の会長,永野氏は富士製鉄社長だったが後に日本商工会議所会頭と日ソ経済委員長に就任,植村氏は当時は経団連の副会長だったが後に第三代会長を務めている。これらミッションの主要団員らは,フルシチョフ第一書記,コスイギン首相,グロムイコ外相らソ連の最高幹部と直接会談し,シベリア開発協力について意見交換の機会を持った。そうした積み重ねが日ソ経済委員会の設立と日ソ・プロジェクト形成への地ならしとなった。とりわけ,財界首脳が自ら訪ソするなど率先して動き,先鞭をつけたことが大きかったのである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1525.html)

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