世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1416
世界経済評論IMPACT No.1416

ナイジェリア:資源の呪いと経済改革

久米五郎太

(城西国際大学大学院 特任教授)

2019.07.15

 アフリカの巨人,ナイジェリアは今や2億の人口を擁し,将来の経済発展への期待が高い。2014年の統計改訂時に,インフォ−マル・セクターやサービス産業などの見直しが行われ,そのGDPは南アフリカを抜き,アフリカ最大の経済規模になった。日産2百万バーレル強の石油と豊富なガスを有する世界有数の炭化水素生産国だが(むしろそれ故に),経済は石油価格の変動に大きく左右され,安定的な成長の持続が難しい。平均すると輸出の9割強,財政収入の4分の3を石油ガスが占め,経済の多様化のペースが緩やかなため,boom and bust(過熱と急後退)のサイクルの影響を強く受ける。開発経済学でいう「オランダ病」(資源のモノカルチャー故の自国通貨の過大評価とその他の産業の競争力不足),さらには石油への過度の依存故の放漫経済運営とガバナンス(統治)の低さといった「資源の呪い」(natural resource curse)の典型例といわれる。

 2000年代以降は10年以上の間平均で実質7%の高い経済成長が続き,いよいよライオンが目を覚ましたと見られたが,ブハリ政権になってからは石油価格の急落の影響から2016年にマイナス成長に陥り,その後の回復も2%以下の低成長にとどまっている。IMFは今年3月には現在の石油生産水準と経済改革の停滞の条件では2024年までは2%台の低成長が続き,一人あたりGDPはほぼ横ばいが続くと悲観的な見通しを示している。

 ナイジェリアの経済の基本的な構造や経済運営は依然として石油頼みなのか,電力などのインフラ不足,ガソリンの輸入依存,製造業の未発達などの弱点は是正されていないのだろうか?開発やビジネスに関わる多くの人たちの共通の疑問である。この国への援助,融資や経済政策,投資環境の議論に関与した時のことにふれつつ,歴史を振り返り,今何が変わっているかにつき二回にわたって述べたい。

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 ナイジェリアの経済開発の歩みは独立直前に生産が始まった石油と密接に結びつており,大きく3期に分けられる。第1期(1970年〜84年)は最初のの石油ブーム期である。こ石油価格が一挙に引き上げられ(第四次中東戦争とイラン革命が契機),石油収入が急増,それに伴い通貨ナイラの価値が大きく上昇し,設備・機械や多くの消費財の輸入が著増した。過大評価されたナイラの下での経済活動は国内生産より輸入が優先され,主食の米など多くの農産品も輸入に頼り,農産物の生産や輸出の減少から農民層が都市に流入した。政府や公社はインフラや産業分野の投資のために財政支出を膨張させ,そのファイナンスを対外借り入れに依ったことから債務残高が大きく膨れあがった。

 第2期(1985年〜99年)は石油停滞期である。80年代後半に入ると石油価格が急落し,低水準が続き,ナイラは大幅に減価した。政府や公社の公的部門は深刻な返済困難に陥り,それが長年にわたり続いた。89年2月に東京で開催されたOECD主催の債務問題と海外投資/新技術のラウンドテーブルでは,ナイジェリアは債務過多(デッド・オーバーハング)に先行き不安が加わり,新規の民間投資は難しく,ブラジル・メキシコなどで新手法として登場したデッド・エクイテイ・スワップ(融資債権を投資事業の出資持ち分に転換)の活用も考え難いという状況であった。その年にナイジェリアに出張したが,日本企業が過去に輸出金融を利用して納入したアフリカ最大のコンバインド・サイクルの発電プラント(ラゴス火力,設備能力1320MW)や化学肥料プラントなどが低い稼働率に苦しんでいるのを知った。主因はナイジェリアの公社の操業・維持管理能力の低さ,具体的には国が置かれた深刻な外貨不足のもとで修理に必要な基幹部品の輸入に要する外貨調達の困難だった。

 ナイジェリアはシャガリ政権という民政の時代はあったものの,ほぼ30年近く軍政が続いた。その結果,ガバナンスが弱く,財政収入は浪費され,不正や汚職(コラプション)が広がったといえる。90年代は総じて低成長に悩んだ上に,アバチャ将軍の治政下では巨額の政府資産が海外に流出した。不正蓄財を海外で銀行預金し,不動産に投資するナイジェリアの政府・軍高官のことがしばしば話題になった。

 しかし,1999年5月にオバサンジョ大統領(かつて軍人時代にクーデターを起こし,大統領を勤めた。ヨルバ族出身)が選挙により誕生し,民政が定着し,数年後からは高い経済成長が10年以上続くなど,政治経済の状況は大きく改善した。世界的な商品ブームの第3期(2000年〜2014年)である。石油価格の上昇と高水準での推移が高成長を可能にした訳だが,同政権第2期の3年間(2003年〜2006年)(および後にジョナサン政権時)にオコンジョ=イウェアラ財務大臣が主導した経済改革の貢献も大きかった。2011年から数年の間,アブジャの大統領官邸(アソ・ロック)で開かれる海外投資諮問委員会会合の場に陪席する機会があり,財務大臣が率いる経済チームの説明を定期的に聞いた。チ−ムは財政規律(予算執行の際の合法的手続きを重視),国営企業の商業化・民営化,コラプション撲滅などのテーマ毎に法律の制定や改正,制度の充実を精力的に進めていた。オバサンジョ大統領がそれをサポートしていた。特に大統領自身が汚職撲滅に注力し,州知事や国会議員,政府高官の犯罪の摘発・処罰を重視していたことが印象に残る。英国のチョーカー前国際協力大臣をヘッドとする諮問委員会もこうした経済改革を進め,コラプションを削減し,多数の国に対する対外債務延滞問題―リスケジュールの合意をしたが,その後も約200億ドルが延滞していたーを解決することが海外投資拡大みは必須だという考え方を支持していた。

 開発経済学の博士号を持ち,世界銀行で20年以上の勤務経験を持つオコンジョ=イウェアラ大臣は,当時はIMFとナイジェリアの関係が切れていたが,自国のイニシアテイブで貧困削減と成長計画(NEEDS)を策定し(homegrown program),それにIMFの承認を得ることでー新設したPolicy Support Instrument制度の活用―,米英を始めとする主要国の信頼を取り付けた。そして2005年10月には有力な産油国としては異例といえる,公的債務300億ドルの一部削減(6割)と再編成につき国際的合意を得ることに成功した。積年にわたる課題であった対外債務問題の鮮やかな処理は,その後の海外からの新規投資資金の流入につながった。予算で設定した石油価格水準が上昇した場合の想定外の収入増加を特別勘定(Excess Crude Account)に積み立てるべく法律を改正し,石油価格の変動に過度に左右されない財政の仕組みも作られた。連邦制をとるナイジェリアでは,州政府に石油収入を一定割合で分配,それに見合った州の大きな歳出権限が放漫財政の一因でもあったが,その管理も強化された。これらの改革はその後,変更(SWFの創設)や恣意的な運営も行われているようだが,長い間Pro-cyclicalな財政運営を行ってきたナイジェリアに健全な経済運営の基礎を与え,規律をもたらしたと言える。

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 “Reforming the Unreformable : Lessons from Nigeria”(2012年,MIT出版)は大統領に呼ばれ,国に戻ってきたオコンジョ=イウェアラが進めた改革の経験をまとめた図書である。民営化の遅れや実体経済への波及はやり残しの課題とされている。女史は財務大臣のあと,再び世銀に戻り,出張の多いマネージング・ダイレクターになったので,執筆に数年かかったと記している。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1416.html)

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