世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.4191
世界経済評論IMPACT No.4191

ダボス後の世界における日本の役割

重原久美春

(国際経済政策研究協会 会長)

2026.02.02

 スイス・ダボスで開催された「世界経済フォーラム2026」において,G7の一角を占めるカナダの首相,マーク・カーニーが行った発言の中で,ひときわ印象に残る一文があった。「古い秩序は戻ってこない」。刺激的な言い回しでも,誰かを名指しするものでもなかったが,その言葉は,国際政治を覆いつつある現実を的確に言い当てていた。

 カーニーが応答していたのは,単に「アメリカ・ファースト」政治の復活や,ドナルド・トランプ米大統領のダボス再登場といった出来事ではない。彼が指摘したのは,より根本的な問題である。すなわち,戦後世界が長らく前提としてきた「信頼できるグローバル経済ルールの保証人」,とりわけ米国の存在を,もはや当然視できなくなったという事実である。言い換えれば,現在直面しているのは一時的な逸脱ではなく,構造的な転換なのだ。

 この認識から,カーニーの中心的主張が導かれる。単一の国家が秩序を下支えすることができない,あるいはそうする意思を持たない世界においては,安定はミドルパワー(中堅国)同士の協調によって管理されなければならない。日本にとって,これは抽象的な理論というより,自国の立ち位置を照らし出す鏡のような指摘であった。

G7という外交基軸の限界

 日本の首相は長年にわたり,G7を外交の中核的な舞台として活用してきた。安倍晋三首相は,G7を価値を共有する共同体として引き上げようとし,岸田文雄首相は,2023年の広島サミットに象徴されるように,政治的・道義的正統性を国際社会に示す場として用いた。

 しかし,カーニーの発言は,G7が抱える緊張関係を浮き彫りにした。G7が最も効果的に機能したのは,それが米国主導の国際秩序の舵取り役として存在していた時代である。今日,この枠組みは二つの構造的制約に直面している。

 一つは政治的制約である。ワシントンで「アメリカ・ファースト」的発想が影響力を持ち続ける限り,G7諸国の協調行動を当然視することはできない。もう一つは地政学的制約である。中国はG7のメンバーではなく,そのためG7は今日の世界経済の現実を十分に反映しているとは言い難い。

 だからといって,G7が無意味になったわけではない。日本にとって,G7は依然として米国を多国間対話の枠内につなぎ止める重要な場である。しかし同時に,G7が現実的に成し遂げられることには限界がある。近年のG7は,複雑に分断された世界経済の摩擦を管理する場というより,意思表示と再確認の場としての性格を強めている。

 もしカーニーが構想するように,ミドルパワーがより大きな役割を果たすのであれば,G7を超える道具立てが必要になる。

ブレトンウッズ改革:必要だが十分ではない

 その文脈で,国際通貨基金(IMF)や世界銀行といったブレトンウッズ機関の改革を求める声が高まるのは自然である。これらの制度の統治構造は,1944年当時の世界を反映したものであり,中国が最大の貿易国となり,インドが主要な成長エンジンとなった現在の世界とは乖離している。

 同様の批判は,関税及び貿易に関する一般協定(GATT)の後継機関である,世界貿易機関(WTO)にも当てはまる。戦後の貿易体制は,主として米国と欧州が主導する交渉を通じて構築され,自由化と紛争解決への共通のコミットメントを前提としてきた。しかしその合意は徐々に崩れ,WTOの交渉機能は長年停滞している。さらに紛争解決制度も,トランプ政権以降,米国が上級委員の任命を拒否してきたことにより,事実上麻痺状態に陥っている。

 もっとも,日本の立場から見れば,こうした戦後制度全体の改革には明確な限界がある。実質的な改革には,米国や欧州が影響力を手放すことが不可欠だが,それは政治的に容易ではない。また,新興国の発言権拡大が,そのまま責任分担の強化につながるわけでもない。とりわけ中国は,ルールからの利益を享受しつつ,制約には慎重な姿勢をとってきた。

 何より重要なのは,IMF,世界銀行,WTOはいずれも,危機対応や形式的なルール執行を主眼とする制度であり,産業補助金,サプライチェーンの安全保障,デジタル統治,気候移行コスト,格差拡大といった,日常的かつ構造的な問題には十分対応できないという点である。これらこそが,カーニーがダボスで念頭に置いていた論点であり,別の制度空間を必要とする理由でもある。

OECDの出番

 1961年に設立された経済協力開発機構(OECD)は,しばしば注目度の低い存在と見なされがちだが,その重要性は過小評価されている。OECDは融資機関ではなく,条件付けも行わず,普遍的代表性も主張しない。中国もインドも加盟していないし,世界全体を代表していると装うこともない。今日の環境において,これはむしろ利点となり得る。

 OECDは,戦後のマーシャル・プランを管理した欧州経済協力機構(OEEC)の後継として設立され,当初から政策調整と相互学習の場として機能してきた。比較分析,ベンチマーキング,ピアレビューといった手法は,ルールが争われ,執行が困難な時代において,ミドルパワーが必要とする実務的道具である。

 日本自身の経験はこれを裏付けている。OECDを通じて,日本はBEPSプロジェクトを含む国際課税協調で中心的役割を果たしてきた。データガバナンスや競争政策など,デジタル経済のルール形成にも深く関与している。また,不平等や包摂的成長に関するOECDの分析は,日本国内の労働市場や社会政策の議論にも影響を与えてきた。

 こうした取り組みは首脳外交の見出しにはならないが,現実の政策選択を着実に形作っている。

日本の役割

 英紙ガーディアンの論説委員ラリー・エリオットが指摘するように,現在の国際秩序の危機は,トランプ個人に還元できるものではない。成長の果実が広く行き渡らず,調整コストが不均等に配分され,開放経済への支持が内側から掘り崩されてきたという,より深い構造問題が横たわっている。

 こうした課題は,抽象的原則を再確認するだけでは解決しない。必要なのは,診断,データ,そして共有された理解である。OECDは,国際収支黒字・赤字国の責任,貿易や産業政策のコスト分配,気候政策と競争力の関係,経済安全保障が市場に与える影響などを分析するうえで,他に代えがたい役割を果たし得る。

 日本は覇権国ではないし,なることもない。しかし,開かれた国際経済に最も深く依存し,その不安定化から最も大きな影響を受ける国の一つである。だからこそ,日本は「国際協調の番人(カストディアン)」としての役割を果たすことができる。

 OECDをルールの制定者ではなく,ミドルパワー協調の拠点として再活性化することは,日本の強みと制約の双方に合致している。それはG7を否定するものではなく補完するものであり,ブレトンウッズ改革では手の届かない領域を埋める試みでもある。

 「古い秩序は戻ってこない」。カーニーの言葉は,終わりを告げるものではなく,責任の所在が変わったことを示している。日本にとって,その責任を引き受ける場所は,喧噪の中心ではなく,OECDという静かだが実務的な制度の中にあるのかもしれない。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article4191.html)

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