世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
恐惶謹言,酒なら依って件の如し
(信州大学カーボン科学研究所 特任教授)
2019.06.10
清流は豊かな自然環境の代名詞と信じられている。我国は急峻な地形と雨量の多さで清流が多く,古来から自然の風景として意識下に刻み込まれているので,透き通った水は不純物を含まない上質なものと信じている人が大多数だろう。筆者が高校生ぐらいまでは,たとえ清流であっても山河の水は必ず煮沸してから飲むようにと言われたものだが,いつしかTVの大げさな「〇〇の名水」みたいな番組の氾濫で生水を飲むことがタブーでなくなってしまった。
潜在意識として清流は自然の代名詞と考える傾向があるので,ほとんどの日本人は,排水を水道水程度に浄化して自然環境に戻せば問題は起こらないと考えている。しかし,この清流信奉は必ずしも自然環境にとって正しいことではない。2019年6月3日の神戸新聞に,「水質改善しすぎて不漁に」という記事が掲載された。筆者が経験した東京湾の三番瀬の「野鳥が飛来しなくなった」と同じことが,21世紀も20年を過ぎようとしている今日でも起こっていることに驚いた。ごく簡単に神戸新聞記事を要約すると次のようになる。国の排水基準に上乗せ規制を行なって厳しい排水基準を長年続けた結果,海水の透明度は上がったが栄養分不足で小魚やのりが不漁になってしまった。漁業の不振を挽回するために廃水処理中の富栄養化物(窒素やりん)の調整を行なって排水をコントロールする,というものである。つまり,記事に記載されていないが,浄水設備はすぐに置き換えできないので一旦浄化した水に肥料を加えて放流するということである。1960年代以降の数々の公害問題を経て学んだことが正しく理解されずに,長年に渡る行政当局の不勉強でかえって環境を破壊してしまった。70〜80年代の環境団体や市民団体の主張にだけにおもねる偏った施策を続けていると,これからも経済的に大きな損失を招くことが随所で発生するであろう。
森林・林業学習館というWEBは丁寧に科学的,経済的に森林(山)と海のつながりを説明している。詳しくはこのサイトを参照していただきたいが,ポイントは,山からな流れ込む栄養素が海の生態を豊にしているということである。このサイトによれば,世界の漁業の大半は川が海へ流れ込む地域に集中しているという。このサイトでは言及されていないが,北海道の昆布漁は流氷に影響される,つまり,遥か彼方のアムール川から運び込まれる栄養素に依存すると言われている。流氷が来なくなったら,オホーツク海の漁業が打撃を受けるのである。
環境問題への意識の高まりは,経済優先の産業政策から人の暮らしと健康へ目を向ける契機となった。特に象徴的なのは,川崎,四日市の大気汚染が無くなり東京も晴れていれば四季を通じて都心から富士山が見られるようになった。石原慎太郎元東京都知事の旗振りで,東京とその周辺からカーボン粉塵を撒き散らしていたディーゼルエンジンが一掃されたことも特筆したい。その御蔭で,世界の中では稀といえるほど良い環境の大都市が出来上がった。これほど,道にゴミが落ちていない,空気がきれい,水道の水を安心して飲める都市は類を見ない。
他方で,20世紀の環境問題は,学生運動と生協運動の延長のような市民活動家の偏った主張と,メディアの「社会の木鐸」的偏頗な見方が大手を振って罷り通っていた。新聞とテレビの発言力が強くなり朝毎NHKの論説の趣旨に沿わない言説に大きな制限が加えられることが常態化していた。環境だけではなく国防の観点でも問題を指摘するだけでマスコミ総掛かりで糾弾が行われ,更迭されるようなことが1970年代から度々発生したことが,「物言えば唇寒し」といった感覚を科学者,技術者に浸透させた。60〜70年代学生運動のような吊し上げに晒されるので,科学者は自分たちの世界へ籠もってしまった。そのため,数十年の時を経るうちに科学的議論が徐々に敬遠されるようになり,2011年の大震災と原発事故が決定打となり市民が科学を信じなくなってしまった。科学が社会へ貢献するには常に社会との対話が必要なのだが,今の日本では科学と社会や経済とのリンクが失われている。当然,社会を変革する破壊的イノベーションを正しく説明しようとしても,マスコミとその周りの文化人の利益にそぐわなければ叩かれるだけである。
今,清流の代わりにAIが似たような状況に陥りつつある。AIというキーワードはかなりビジネスインパクトがあるので,猫も杓子もAI,広告でもAI云々が巷に溢れているが,長年研究を進めている数学の専門家の意見,議論はかき消されがちである。AIを正しく捉える,社会に向けて解説するには,ある程度の数学の知識と理解が不可欠である。
現在のコンピューター技術は,画像処理などの特定の課題に対して学習と近似的な予想を出力する。マスコミで大騒ぎしている自分で考えて判断する人工知能と言うには程遠い。マジックタームとしてナンチャッテ解説者が使う「シンギュラリティ」は,現在のノイマン型プログラミングでは数学的にありえない。90年代から生体物質を使ったコンピューターというアイデアが存在しているが,そのための数学が十分に確立されていない。生体型,半導体型のいずれでも非ノイマン型が本当に実用化されるまでには,まだ時間がかかるだろう。
AI用ディープラーニング数学を理解するだけでも相当な努力が必要であるが,今こそ,より良いイノベーションに進むために専門家の意見を聞く時であろう。また,企業の経営者は,出身を問わず,数学を学び直すことで正しくAIを理解してもらいたい。いっその事,主要企業経営者に就任するためのAI理解度試験を国家資格として導入した方が,我国が発展するのではないか。理解せずにAI導入の号令だけ唱えるならば,それは,「飯を食うのが恐惶謹言,酒なら依って件の如しか」,大いなる勘違いにしかならないであろう。
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