世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1345

改元を契機に時の推移を考える

末永 茂

(エコノミスト ・元いわき明星大学)

2019.04.22

 新元号は「令和」となったが,年号に関しては特別な感慨もある。かつて通史としての「日本史」を学びたいと思い,学部でこの講座を履修したのだが,一年間の授業内容は「年号と改元の話」のみに終始するものだった。しかも,『研究紀要』の棒読みという恐ろしく退屈なものだった。当時はなんてひどい授業かと感じたが,不思議と卒業後,その授業内容が最も印象に残っている。湯川秀樹の授業も黒板に向かって独り言のようなものであり,前3列しか聞き取れなかったと,当時の受講者は回顧している。この手の講義は現在は許されないだろうが,やはり大学の講義はこれで良いのではないだろうか。余りに面倒見が良くては,人材は育たないのではないか。またそのためのコスト,つまり授業料の高額化も必然化する。そして,地方からの進学はますます困難になっている。就職課もPTAもなく,講義と単位認定だけが厳格な教育機関があっても良いのではないか。

 さらに大学院生の実態に関連した報告がある。大学出版協会『大学出版』第114号(2018/04)で「大学院生は困っている!」という特集を組んだ。興味を持った論考に「大学院生の苦境;高等教育と学術研究の危機」及び「奴隷解放いまだ;任期付き研究者/ピペドたちの悲哀」があった。これらは何れも高学歴者の活用のため,労働市場を強靭化する課題と軌を一にしている。雇用の大部分は民間企業である。この業界が先導的役割を果たすのが本筋である。

 この点に関して,経団連会長は『日経新聞』(04/04付)のインタビューで「『こういう仕事をしたいからこの勉強をしたんだ』と言える教育をして欲しい」と大学に望んでいるようである。さらに「企業が変わり,社会が変わることが大事だ。企業経営者が切迫感を持ち,きちんと社会に伝えないといけない」とも言っている。この論点を敷衍すれば,大学院を修了した人達は金の卵といえるだろう。学部卒業者よりも明確な目的意識と強い向学心を持っているからである。機会費用を考慮に入れないなら,業界も新古典派経済学も成立しない。即時的効果のみを期待しているのであれば,生涯学習の拠点である大学の役割は果たせない。

 多元的で位相が異なる意見や価値観を統合するためには,やはり「正-反-合」の過程を経ることになる。論理学では「三段論法」が科学的方法だとしているが,現実の社会ではプログラム言語以外は,非論理的で論理の飛躍がつきものである。それ故,非科学的な要素を含めた弁証法がこの世の中から消滅することはない。狭義の科学主義のみを信奉していると,大きな損失を見逃すことになる。社会制度は均質・単一のものではない。常に流動化しているし,多重に修正され改良されて行くものである。経済学派はこれに対応した多種多様なものであるはずだ。しかし,この多様性の退潮が利己主義を助長しかねない浅薄な「自由主義」の独壇場を創り出し,政策論戦に緊張感を失わせたように見える。資本主義の没落論を基調とした「何でも反対」や「万年危機論」を唱える学派の復活を願望している訳ではないが,多面的な論点の欠如はきわめて平板的な学界状況を創り出している。しかも,ネット情報の氾濫によって,情報価値そのものが喪失しつつある。情報の公理・基準が失われれば論壇は崩壊し,究極は高い倫理観の形成そのものまで不可能になってしまう。

 これに対して,鮮明な目的意識を持った周辺アジアの教育熱は存在感を増しているが,かつて我が国には世界的な業績を誇る幾つかの学問体系があった。中村元のインド哲学,諸橋轍次『大漢和辞典』,マルクス経済学等は何れも本国の研究業績を超えるものである。だが,職業資格等の取得優先のカリキュラムで,我が国とアジア諸国の関係はあたかも「兎と亀のレース」になりつつある。他方,産業動向の調査やその先端の研究は大学研究者よりも,シンクタンクの方が先を行くのは当然である。利潤動機が強く働いている彼らと,競争したところで勝ち目はないだろう。裁量労働制の普及がさらに進めば,研究者は一般企業人にも後れをとることになる。

 こうなった場合,先に触れた学問業績を踏まえた「文化外交」という目に見えない長期的・根源的観念を育成することが難しくなる。神保町の古本屋街に通い始めてから半世紀になるが,街の状況は廃る一方である。書店主と立ち話をする機会があったが,理系の古本撤退が最も早く,次が法学・判例本で,比較的堅調なのが歴史関連の文献とのことだった。これらは何れもパソコンの普及に起因した現象である。ネット配信による誰でもが投稿者であり,読者であるという情報拡散社会は留まる所を知らない。情報洪水社会を創り出し,じっくり考えることもない「文化」が横行することになる。誰もが専門家であり,評論家,芸術家になり得るかのような社会である。書籍と言えば「カタログ」や「トリセツ」(取扱説明書)の類の,使い捨ての出版物が幅を利かせて来る。

 主語が変われば世の中が変わる。旧来から社会科学系の講義は,主語が「政府・支配層・為政者・社会」ということになるが,マネージメント関連学部となれば,主語は「経営者・CEO,部長・課長,従業員」。あるいはもっと固有名詞に近い「経団連・商工会議所・社長」等々ということになる。さらには,「帝国データバンク」や「東京商工リサーチ」等々,個別具体的な社名や人名まで取り上げた議論にならざるを得なくなる。資料・データも実際の生データなしでは,大学での授業は臨場感のある白熱議論にはなり得ないからである。

 高校を卒業したばかりの学生に,企業秘密にもなりうる情報を扱うことが出来るのだろうか。出来ないと想定した場合,勢い「学芸会」的なものにならないのだろうか。いわゆる「アクティヴ・ラーニング」といわれる授業形式や,サンデル教授の討論授業はかつての高校生の生徒会程度の議論でしかない。講義形式の専門的学習を経ないで行われるわけだから,当然と言えば当然である。これらの教育試行が「ゆとり教育」の反動に結果するのではないかと予見される。もっとも,昔の重厚なものは価値が高いと言いたい所だが,だからと言って「ピラミッド」建設や「サターン5型ロケット」開発の復活を! という訳ではない。ストックを否定したフローのみの社会に向かうのは失うものが多く,社会的リスクが大きくはないかと言いたいのである。

関連記事

末永 茂

国内

教育・学び

日本

最新のコラム