世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.4000
世界経済評論IMPACT No.4000

世界は二つより,一つの地球へ:モーゲンソーから読む

末永 茂

(国際貿易投資研究所 客員研究員)

2025.09.22

 中国で「中国人民抗日戦争ならびに世界反ファシズム戦争勝利80周年記念大会の軍事パレード」が開催され,グローバルサウス20カ国以上の首脳が招待された。これはその盟主に中国がなろうとしていることを宣言しているかのようである。特に隣接している国家に対しては親密度をアピールしている。北朝鮮は対ウクライナ戦争に派兵している国であり,ロシアは石油天然ガスの供給国として中国の期待も高まっているのだから当然と言えば当然である。それにしても多くの強権国家が中国になびいているのは,その国家体制の特質や歴史的経緯に由来している。近代西欧文明は数学的論理構造の現実社会への適応を基軸に形成されたと認識されている。しかし,実際の諸社会は理屈通りにことが運ぶ訳でもない。未だそんな論理とは無縁な地域社会は,先進国においても広く存在している。高邁な理屈は理念・運用・実態の各層で齟齬をきたすため,世界は帝国的支配や宗教的統治,商業的システムによって一応秩序が維持されている。他方で,大なり小なりの紛争は日常茶飯に発生し,時として現在のウクライナやガザ地区の大規模な破壊にまで展開する。

 古来中国には「上に政策あり,下に対策あり」という格言があり,広く庶民にまで浸透している。つまり,中国人は政府のいう事など半分も了解していないのである。ではどのようにして一社会の秩序を保っているのであろうか。強権政治が最終局面を担っているのである。高度経済成長を実現した中国は,政治的枠組みは社会主義=政治統制であり,経済活動は自由市場を容認するという混合体制である。最近注目されているグローバルサウスは,かつて後進国と表現され,先進国との格差を南北問題して扱われてきた地域・諸国が多数含まれている。先進国から常に収奪される立場で「経済的な自立成長は出来ない」と見なされてきた。しかし,1980年頃からのNICs=新興工業国家群の台頭辺りから,世界は様相が変わり始めた。

 市場経済の発達ないし浸透によって,従来からの社会慣行なり社会構造が完全にシステム化出来ないことは近現代史が証明している。点在する小規模の家産制国家は劇的に解体され,ブーケ的「二重経済」を一つの社会として,どのように秩序立てるかが新たな問題として浮上してきた。しかし,どんなに独裁的システムを運用しても,人間活動は理性的かつ計画通りにはならない。AIのさらなる精密化を駆使しそれを達成しようとしても,所詮は誤差や誤謬は避けられない。要するに想定している論理構造から外れる,善と悪の現象は日常的に発生する。数学的論理構造は社会においては,傾向としてはある一定の規模で再現可能であるが,それは現実社会そのものではない。これを政治的に包摂するのが軍事行動である。中国は易姓革命なる大混乱を何度も味わっており,歴史教訓として強権的な政治体制にならざるを得ず,それは今日,多くのグローバルサウスの首脳陣にも共有される。

 近代戦争論は総合科学の様相を帯びている。つまり「兵器=機械戦」➔自然科学的分野。「兵站=後方支援・物流戦」➔社会科学的分野。「思想戦=情報戦」➔人文学的分野ということになる。旧日本軍残留兵の小野田少尉はこの思想戦において取り残され,30年の長きに渡って孤軍奮闘することになる。そして,帰国してからも敗戦民主主義社会には馴染めず,異国の南米フロンティアで人生を全うすることになる。如何にこの思想戦から解放されることが困難なのかを見ることが出来よう。まして,強権政治をDNAとして温存している国家体制においては,それを溶解させることは想像を絶する至難の業だ。おそらく溶解した暁にはその国家は崩壊してしまうのだろう。だから引くに引けないということになる。

 ハンス・J・モーゲンソーは民族国家に基盤を置くバランス・オブ・パワー=パワーポリティックス論者であるが,超国家組織によって「世界国家」を目指す論理も展開している。しかし,その後の国際情勢を見る限り,なおもその具体的道筋が必ずしも見えてこない。もちろん,この論理構想は明らかに中国の世界構図とは異なるのだが,版を重ねるにしたがって文化的要因の比重が高まっている。おそらく周囲を見渡し老境に入ることによって,非軍事志向が高まったとしか読めないところがある。バランス・オブ・パワー論者なら「世界軍」への言及くらいは展開してもらいたかったが,さすがにこれは夢想ではないかという批判を警戒したのだろう。しかし,理性的論理だけの世界統治には限界がある。独裁的君主以外の意見など聞きたくないという大衆は少なからず存在するし,これまでも存在して来た。彼らへの対処はどうすれば良いのか。理性的判断をあえて回避してきたのも世界史の現実であった。これを人類が自覚すれば,あくまで自国軍の強化ではなく「世界軍」への貢献ではないか。そして,国権による軍事力発動の全面的制限ということになる。

 文化的貢献は民間団体が積極的に担い,軍事的外交は政府が担当するが,その際,国連軍や多国籍軍はさらにグレードアップし,国家権力から超絶した国際的常備軍へと統合しなければならないのではないか。文化的貢献と軍事力の国際的統合への作業は表裏一体的に進めるのが望ましいから,文官と武官の適正なバランスを模索したい。内外の治安を維持するためには,多方面からの知見の立体的集合が欠かせない。

 さらに,移民問題について言及するなら,それはいわゆる排外主義ではなく,彼らへの不当な取り扱いへの警告として論じなければならない。非正規雇用なる差別的扱いが日常化しているのが,我が国の雇用構造である。さらに,彼らは日本社会に定住した後には,大勢の親族を呼び寄せたいとも公言している。その結果,移民に対して社会福祉機能だけが強化されれば国家財政そのものが破綻してしまう。我が国が移民を受け入れることが,リベラルとか人道的施策と言えるのか。安易な議論であり,大いに疑問である。“a people”をどう翻訳するのか。「国民」か,「民族」か「人民」か,ということにも関わるが,そもそも大量の移民を発生させる国に於いては,自分たちの国家をどのように形成するのか,という主体的議論を蔑ろにしてはならない。つまり既に人類は十分過ぎるほど「地に満ちた存在」であり,移動コストは世界政府樹立のために振り向けるべきである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article4000.html)

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