世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
スロヴェニアの渓谷から国際的に事業展開する企業コレクトール社
(新潟大学 名誉教授)
2017.08.21
中東欧のポスト社会主義諸国の中には注目すべき企業がある。多国籍企業コレクトール(Kolektor)の本社と主力工場は,スロヴェニアの首都リュブリアナから西へ60㎞離れたイドリア渓谷にある。これは,モーターの部品の整流子(commutator)を生産する中堅企業である。規模は小さいが,スロヴェニアでは最も良好なパフォーマンスを示している企業である。イドリア溪谷は水銀生産で栄えた所である。20世紀後半,世界的に水銀の消費量が減り,価格が下落し,水銀の採掘と精錬はしだいに採算が合わなくなってきた。1960年代前半,鉱山が閉鎖されつつあり,イドリアでは失業者が約400人,さらに潜在的な失業もいた。この町に雇用を提供しようとして,スロヴェニア政府は,水銀の採掘と精錬に代わる新たな事業を起こすことを考えた。
旧ユーゴでは,1965年の経済改革により,上級国家機関の権限が大幅に縮小され,経済に関する権限のいくつかが企業や自治体に移され,それと共に市場経済的要素が拡大された。同年にユーゴは社会主義国としては初めてGATTに加盟した。この結果,ユーゴ経済が外国投資に開放され,国際分業に組入れられることになった。当時,スロヴェニアにはイスクラという総合電機器具メーカーが存在した。イスクラは整流子を含む重要度の低い小規模の生産を閉鎖した。イドリア市が整流子生産を受け入れた。最初47人の労働者で1963年5月にフル操業するようになった。この小さな企業が「コレクトール」である。
イスクラから受け継いだ技術が古かったので,進んだ技術を導入するために外国の戦略的なパートナーが必要であった。1967年の外国投資法に基づき,同社は,1968年に当時ヨーロッパ市場のリーダーであった西独の会社Kautt & Bux(以下,K&B)と提携した。K&Bはコレクトールの50%超の所有を希望していたが,ユーゴの法律によって許容された上限であった49%を受け入れざるを得なかった。
コレクトールはR&Dに大いに投資し,K&Bから熱心に技術を吸収し,改良した。1978年には整流子に関連する銅製品のための技術を獲得した。1980年代にコレクトールはいくつかの特許を取得した。この工場は単に知財を吸収し,利用していた会社から,イノベーター,自分自身の知財を生み出す会社へと変貌し,K&Bと対等なパートナーになった。特許のおかげで,コレクトールの製品のなかには,技術的な意味でK&Bを超えるものさえ見られるようになった。20年間に両者の間の関係は逆転した。
1989年に旧ユーゴの自主管理社会主義は事実上破綻した。コレクトールは自主管理企業から,明確に定められた所有権をもつ民間企業へと転換されなければならなかった。1990年に同社は有限会社になった。外国のパートナーとの所有関係も見直され,K&Bとコレクトールとの共同出資は株式に基づく関係に変更された。外国のパートナーの出資分は株式に転換された。財務的な困難を抱えていたK&Bは,この変更を歓迎した。1980年代末以来,K&Bは困難に陥っていたので,銀行に対する自分の立場をよくするために,K&Bはコレクトールを自分自身の連結財務諸表に組み入れることを望んだ。そのためにはコレクトールの多数株所有者にならなければならなかった。だが,こうした措置もK&Bを救うことができなかった。
1993年夏,K&Bは破産手続きを申請した。コレクトールは協定から離脱した。K&Bの経営不安が伝わるなかで,ヨーロッパの主要な顧客は整流子の供給が止まるのを恐れていた。このとき,コレクトールの経営陣はこれらの顧客と直接契約を交わした。信頼できる製品を安定供給することにより,同社はついに要求が最も厳しい複数の大口顧客からの信頼を勝ち取った。こうした努力が実り,同社は市場的独立をはたし,自社独自の販売ネットワークを確立し,独自ブランドで活動するようになったのである。こうしてコレクトールは,ヨーロッパで第1位,世界第2位の整流子生産者になった。
かつてのパートナーK&Bは1994年にアメリカ企業カークウッド社の傘下に入った。コレクトールは2000年にK&Bの工場をカークウッドから買い取り,本国のほかに,ドイツ,アメリカおよび韓国でも生産をする多国籍企業になった。2002年にはカークウッドから株式を買い戻し,完全独立を果たした。コレクトールは経営の多角化をはかり,関連する分野にも進出し,いまでは3つの分野,すなわち,自動車技術,建築技術および工業技術で活動している。イドリアでは約700人が働くが,2011年にはコレクトール・グループ全体では3,076人が働き,その取引高は4億5000万ユーロであった。コレクトールは,小さな国内企業から出発し,次に外資系企業になり,そして独立し,世界的に事業を展開する多国籍企業になったという稀有な事例である。
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