世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
日本のASEAN直接投資の「新しい波」
(立命館大学 名誉教授)
2017.01.23
2008年のリーマンショックを経て,2010年代に入ると日本のASEANへの直接投資(FDI)が急増してきた。ASEAN側の資料(ASEAN Secretariat and UNCTAD[2014, 2015])によりこの5年間(2011−2015年)のASEANへの直接投資の上位5カ国・地域をとってみると,第1位はASEAN(つまり,ASEAN域内投資)で1兆140億ドル(全投資額の17.5%),第2位は日本(8,077億ドル,14.0%),第3位米国(5,090億ドル,8.8%),第4位中国(3,710億ドル,6.4%),第5位英国(3,690億ドル,6.4%),の順になっており,日本は他の主要国を大きく引き離して第2位であり製造業部門においては28.9%(2015年)と最大の投資国になっている。このように日本のASEANへの直接投資に大きなうねりが観察されることから,「日本の直接投資の新しい波」(A new wave of Japanese FDI)と名付けられた(op.cit., 2014, p.75)。
ところで,日本のASEAN直接投資の「新しい波」と名付けたのは,実はこれが最初ではない。1985年のG5(プラザ合意)による円高・ドル安を契機にして日本のASEAN直接投資が急増したのを目の当たりにしたタイ国チュラロンコーン大学のPasuk Phongpaichit[1990]はこの用語を使用して,日本のASEAN直接投資の「古い波」と「新しい波」を対比して研究を行った。本稿の目的は,前回の「新しい波」と今回の「新しい波」を対比して考察することにあるが,彼女の研究が示唆に富む内容を有することから参考にして述べてみたい。
「古い波」と「新しい波」を対比する際の第1点は,量的な違いである。「古い波」の5年間(1969−1973年)の日本の直接投資の累計額は83億ドルであり,年平均では16.6億ドルだった。他方,「新しい波」の5年間(1986−1990年)の累計額は2,272億ドル,年平均額は454.4億ドルだった(財務省『財政金融統計月報』の「国際収支特集号」各年版)。このように両者の規模には劇的な変化と隔絶した違いがある。第2点は,質的な変化である。「古い波」の時期の日本の直接投資は,①原料資源の獲得や低賃金労働の利用が主たる目的であり,②労働集約型産業(繊維産業等)が中心で,③合弁企業が主な形態を成し,④ASEAN側の輸入代替型工業化政策(ISI)に対応して進出し,⑤現地市場の確保を目指していた。他方,「新しい波」の時期になると,①日本企業の生産の再配置が主たる目的となり,②加工組立型産業(電機・電子,輸送機器,機械,等)が中心となり,③100%株式保有の形態が選好され,④ASEAN側が輸出指向型工業化政策(EOI)に転じたのに対応し,⑤第3国向けの生産や輸出(生産基地=輸出基地)と逆輸入=アウトソーシングが目指されるようになった。彼女の言葉を借りると,「新しい波」の時期から日本企業は真の多国籍企業型の海外事業活動に乗り出したが,それを可能にしたのは重化学工業中心の経済からハイテクとサービス産業中心のそれへと日本経済が転換=構造変化したことにあるという。また,日本側(供給側)のみならずASEAN側(需要側)も直接投資を牽引する役割を果たしており,両者を包含した理論的枠組みで検討すべきであるとも指摘している。
本稿の目的である,前回の「新しい波」と今回の「新しい波」の両者を対比して検討してみよう。
第1点は,量的な違いである。前回の「新しい波」の5年間(1986−1990年)の累計額と年平均額は,すでにふれたように,2,272億ドルと454.4億ドルだった。今回の「新しい波」の5年間(2011−2015年)の累計額は50兆5,360億円であり,年平均額は10兆1,072億ドルだった(財務省「国際収支統計」)。前回と今回とでは1996年を境にしてドル表示から円表示に変更されたため厳密な比較はできないが,換算すればほぼ倍増していると見ることが出来よう。日本の対外直接投資のこれまでの推移の中で空前の規模で現在投資が行われていることになる。
第2点は,両者の「新しい波」を惹き起こした要因に変化が見られることである。前回の要因が,1985年のG5(プラザ合意)による①円高・ドル安と②貿易摩擦にあったことに異論はないだろう。しかし今回は,なるほど2008年以降の円高局面で日本の直接投資は増加したものの,2012年末以降円安に振れても直接投資は増加を続けており,為替相場との相関関係に変化が見られる。前回の「新しい波」の背景には日本の経常収支なかでも貿易収支の大幅黒字による激しい貿易摩擦があった。今回の「新しい波」においては経常収支と貿易収支は様変わりしている。2008年のリーマンショックを転機にして日本経常収支の黒字は大幅に減少し,貿易収支に至っては2013年の30余年ぶりに赤字に転落した。経常収支の黒字を支えているのは今や「第1次所得収支」と「知的財産権等使用料」の黒字であり,両者の黒字に直接投資が貢献するという構造になっている。このように経常収支の構造が変化した根本的な原因は日本経済の構造変化にある。
第3点は,Pasukに倣って,今回の「新しい波」を惹起したASEAN側(需要側)と日本側(供給側)の要因の検討である。その際,ASEAN Secretariat and UNCTAD[2014]の分析が参考になる。
ASEAN側の要因としては,①地域統合の進展(とりわけ2015年末に発足したAEC[ASEAN経済共同体]),②生産コストの削減による国際競争力の強化,③産業クラスターの成長,④域内市場の潜在力,等を挙げることができる。AEC発足の主目的は外資(FDI)の導入である。FDIを導入して産業の高度化と高付加価値化を実現し国際競争力を強化し,FDIの受皿として産業クラスターの成長という裾野の広い産業基盤を築き,加えて「中間層」をターゲットとした「市場指向型(market-seeking)FDI」を呼び込む。このようにFDIの導入により経済発展を実現しようとするASEANにとっては,製造業分野の直接投資を重視する日本企業の進出は特に魅力的に映ろう。
日本側の要因としては,①ASEAN地域の投資環境の改善,②AECに対する期待,③日本企業のリスク分散戦略(「チャイナ+1」と「タイ+1」),④ASEAN域内に生産網を形成することで域内の補完性の利益を入手すること(つまりリージョナル・バリュー・チェーン(RVC)を構築すること。なお,RVCについて詳しくは拙稿[2016]を参照),⑤グローバル市場での厳しい競争に対応するために生産効率を引き上げること(つまりグローバル・バリュー・チェーン(GVC)のASEANへの延伸),等を挙げることができる。しかし,今回の「新しい波」を惹起している基本的な要因は,経常収支に構造的な変化をもたらしている日本経済の構造的な変化にあると言うべきであろう。『通商白書』(2015年版)が「対外的な稼ぎ方」に焦点を当てて,「輸出する力」が弱体化しているのとは対照的に海外投資による「外で稼ぐ力」が強化されていると述べているように,日本の経済構造が多国籍企業の海外事業活動を主軸にする構造へと転換したことが,「新しい波」を惹起している基本的な要因であると言えよう。国際協力銀行の『わが国製造業の海外事業活動に関する基本調査』(2016年版)によれば,2015年の海外生産比率は35.6%,海外売上高比率39.6%,海外収益比率36.4%,となっておりこのことを裏書きしている。
〈参考文献〉
- 1.ASEAN Secretariat and UNCTAD[2014], ASEAN Investment Report 2013-2014:FDI Development and Regional Value Chain, Jakarta, Indonesia.
- 2.—— [2015], ASEAN Investment Report 2015: Foreign Direct Investment and MSME Linkages, Jakarta, Indonesia.
- 3.Pasuk Phongpaichi[1990], The New Wave of Japanese Investment in ASEAN, ISEAS, Singapore.
- 4.西口清勝[2016],「ASEAN経済共同体(AEC)とリージョナル・バリュー・チェーン(RVC)」,中谷義和他編『新自由主義的グローバル化と東アジア』法律文化社,第11章。
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