世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
金正恩総書記をめぐる後継論争:「ジュエ」なる娘は4代目を世襲するか?
(国際貿易投資研究所 客員研究員・亜細亜大学アジア研究所 特別研究員)
2026.01.19
北朝鮮の最高権力者である金正恩(キム・ジョンウン)総書記は,2026年1月1日,先代の金日成(キム・イルソン)主席および金正日(キム・ジョンイル)総書記の遺体が安置される錦繍山太陽宮殿(霊廟)を参拝した。記事本文では触れられなかったものの,配信された画像や動画には,李雪主(リ・ソルジュ)夫人と,「ジュエ」とされる娘が初めて参拝に同行した様子が収められていた。なかでも注目されたのは,その立ち位置である。娘は金正恩総書記と李夫人の間,すなわち「センター」に立ち,「白頭の血統」の聖地に親子三人がそろって臨むという象徴的構図を形成した。この演出は,娘を4代目後継者として内外に誇示する政治的メッセージとして読み解くことができる。
年齢が10代前半とみられるこの娘は,2022年11月18日の火星17型ICBM試射の現場で「愛するご子女」として初めて公に紹介された。その後,年を追うごとにプロトコル上の扱いは格上げされ,現在では「尊敬するご子女」との敬称が定着しつつある。「愛する」から「尊敬する」への変化は,単なる「子女」の域を超え,権威の継承者としての位置づけが意図されていることを示唆する。とりわけ2024年は,3月に最高指導者のみに許される「嚮導(きょうどう)」の敬称が娘に対しても(「嚮導の偉大な方々」として)適用されたほか,年間を通じて李夫人の動静が報じられず,娘が事実上のファーストレディ役を担う場面が顕著となった。2025年6月24日の元山葛麻海岸観光地区竣工式においても,同行した李夫人は終始,金正恩総書記と娘の後方に控えており,娘の象徴的位置づけは一層鮮明となった。李夫人が健在であるにもかかわらず,娘が前面に立つ現状は,権力継承を見据えた周到な布石と解釈し得る。
金正恩総書記の公開活動に同行する娘の役割について,筆者は三つの特徴があると考える。
第一は,後継に向けた準備過程の本格化である。北朝鮮では,最高指導者の決断ひとつで後継指名は決まり得るが,権力の継承と国家統治の安定は別問題である。娘は未成年であり,しかも家父長的な男性優位社会の伝統が強固な北朝鮮において,女性が最高権力を継承することは容易なことではない。そのため,長期にわたる「ガスライティング」(心理的操作)を通じて,国民の認識を徐々に書き換える「リフレーミング」(認知の再構成)が戦略的に選択されたとみられる。言い換えれば,「4代目後継」という理屈を言葉で説明するのではなく,映像や写真による「視覚的事実」として国民の記憶に刷り込むのである。金正恩総書記との親子関係や「白頭の血統」という象徴性は,家父長制的伝統や性別・年齢といった制約を超越し得るとの判断が働いたとみられる。実際,娘の動静が記事本文に記されることは少なく,映像や写真を通じて視覚的に伝えられることが多い。文字による宣伝は忠誠の対象や論理の説明を要するが,視覚は情緒に直接訴え,忠誠心を迅速に引き出す効果があるとされる。
韓国の通信社「聯合ニュース」が入手した党理論誌『勤労者』(2025年3月号)には,「朝鮮労働党は領導の継承問題を輝かしく解決した偉大な党である」と題する論文が掲載されている。同論文は,1970年代に金正日総書記が金日成主席の下で後継者として党を掌握した過程に触れつつ,金正日総書記が「早くから敬愛する金正恩同志を偉大な継承者として育てることに心血を注いだ」と強調している。しかし現実には,金正日総書記の急死(2011年)により,金正恩総書記は国政経験をほとんど積むことなく国家統治を担うことになった。この経験が金正恩総書記に強い心理的痕跡を残し,娘への後継教育を急がせている可能性がある。
加えて,娘の同行範囲は軍事・経済・外交へと拡大しており,初登場がICBM試射であったことは,軍の掌握を最優先課題とする意図を象徴している。近年脱北した軍人の証言によれば,軍内部ではすでに娘の偶像化作業が始まっているとも伝えられる。
第二の特徴は,国家危機管理体制の確立である。金正恩総書記は2021年1月の第8回党大会で党規約を改正し,自身の「代理人」として「第一書記」を新設した。また,2022年5月の党政治局協議会では「国家危機対応能力の画期的発展」を強調し,同年8月の全国非常防疫総和会議では「戦争・伝染病・自然災害」の三大危機を国家存立に関わる最重要課題と位置づけた。北朝鮮の学術誌『哲学,社会政治学研究』(2023年9月)に掲載されたチャン・ヨンミンの論文「国家危機対応能力の本質」は,危機対応能力を「国家が直面し得る危機を未然に防ぎ,被害を最小化し,適時に解消するため,常設の専門機関と統一的指揮体系を備え,人的・物的資源を効果的に動員できる能力」と定義している。北朝鮮が「有事対応国家」への転換を図っていることがうかがえる。
さらに2022年9月に制定された「核武力政策法」は,指揮統制体系が危機に陥った場合,事前計画に基づく核攻撃を「自動的に」実行すると規定した。これは「唯一領導体系」を原則とする北朝鮮において極めて異例であり,金正恩総書記に万一の事態が生じても体制を維持するための権限委任の制度化と解釈できる。国連制裁やコロナ禍,相次ぐ自然災害,米朝ハノイ会談の決裂,米韓が採用する「斬首作戦」(有事の際に北朝鮮指導部を先制的に無力化する作戦)や「キルチェーン」構想(北朝鮮のミサイル発射の兆候を探知し,発射前に破壊する先制攻撃体系)の定着を受けて,金正恩総書記はこれらを自国体制への直接的脅威と認識し,国体護持を最優先せざるを得ない状況に追い込まれた結果と言えよう。金正恩総書記は,システムによる統治の補完に加え,娘という「血統の象徴」を早期に確立させることで,有事における体制崩壊の阻止を図っているものと考えられる。
第三の特徴は,娘を国民統合の象徴として位置づける戦略である。北朝鮮では建国世代や「戦勝世代」(朝鮮戦争従軍世代)がほぼ姿を消し,「革命の継承」が困難な局面にある。革命を知らない世代が革命を継承しなければならないという構造的矛盾のなか,イデオロギー教育の強化が図られているものの,統治理念としての求心力は弱まり,体制の不安定要因は増大している。特にMZ世代と呼ばれる若年層は外国文化の影響を強く受け,体制側から思想的に不安定な存在とみなされている。金正恩総書記が娘との交流を繰り返し露出させるのは,娘を若者世代の象徴として前面に押し出し,その世代を自らの側に取り込む意図があると考えられる。
また近年,金正恩総書記が強調する「母なる党」や「社会主義大家庭」といったスローガンの象徴としても,娘は李雪主夫人より適していると判断された公算が大きい。イデオロギー的統制力が低下するなか,母性愛に加え,若さや純粋さといった情緒的価値を前面に押し出し,世代を超えた,未来に向けた統合を図ろうとする思わくがうかがえる。
もっとも,現時点で未成年とみられる娘への権力継承は短中期的には非現実的である。将来的に正統性を確立するためには,成人後に党や軍で実績を積む必要がある。これは制度的に見通しやすいプロセスである一方,「権威の継承」は国民の認知や感情に深く関わるため,偶像化・神格化には長い年月を要する。さらに,金正恩総書記には他にも子女がいるとされ,国民の反応次第では後継候補が差し替えられる可能性もある。ゆえに,娘の後継は現時点で「確定事項」ではなく,あくまで複数の選択肢の一つとして模索されている段階とみるべきだろう。いずれにせよ,後継体制の構築に向けて国民の忠誠心をいかに高め,娘をどのように育て,後継のナラティブを作っていくのか。金正恩総書記にとって,すでに長く,そして困難な工程が始まっていると言える。
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