世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3952
世界経済評論IMPACT No.3952

ドル連動ステーブルコインが揺さぶる国際金融

白井さゆり

(慶應義塾大学 教授)

2025.08.18

 いま,私たちの気づかないところで,「お金の流れ」が静かに変わり始めている。銀行を介さず,スマートフォンだけで世界中に米ドルを送れ,受け取れる時代が到来しつつあるのだ。その中心にあるのが,ドル連動デジタル通貨すなわちステーブルコインである。便利さと革新性の裏に潜むリスクを抱えつつも,この新しい「デジタルドル」は国際金融の構造を大きく変えようとしている。

広がるステーブルコインの利用と生活への浸透

 これまで世界のドルを中心とする国際金融を支えてきたのは,ユーロダラー市場だった。ユーロダラーとは,アメリカ国外の銀行に預けられた米ドルのことで,1950年代以降,国際貿易や投資の資金源として機能してきた。銀行間のネットワークを通じて世界を巡るこのドルは,長らく国際金融の血流を担ってきた存在である。

 近年,新たなドルの流れを作り出しているのがステーブルコインだ。Tether社の「USDT」やCircle社の「USDC」に代表されるステーブルコインは,1枚が1ドルに連動するデジタル通貨である。ブロックチェーン上で発行され,インターネットにアクセスできれば誰でも利用できるため,銀行や国際送金ネットワークを介さずに企業や個人の間で直接送金が可能だ。

 この利便性は大きい。24時間365日,低コストでほぼ即時に送金できるため,とくに自国通貨が不安定な国々で生活の中に浸透し始めている。アルゼンチンやナイジェリア,レバノン,トルコなどでは,物価上昇や通貨価値の下落に直面する人々が,日々の貯蓄や送金の手段としてステーブルコインを利用している。こうした国では,投資目的というよりも,資産を守るための「デジタル貯金箱」としての役割を果たしているのだ。

国際金融への影響と金融政策の課題

 ステーブルコインは便利な一方で,金融システムに新たな課題をもたらす可能性がある。最大の問題のひとつは,金融政策との関係である。ステーブルコインの発行体は,ドルとの交換価値を保証するために,米ドル預金や短期米国債などの流動性が高い安全資産を保有している。だが,これらの裏付け資産は,銀行による貸出や信用創造には使われない。つまり,経済の取引の潤滑油としての役割を果たさず,金融システムの外に滞留してしまうのである。

 もし大量の資金が,ユーロダラーからステーブルコインに移れば,従来の銀行預金は減少し,貸出余力が低下する可能性がある。その結果,企業や個人への資金供給が縮小し,景気への影響も無視できなくなる。さらに,ステーブルコインの裏付けとして大量に保有される短期米国債が,市場のストレス時に一斉に売却されれば,短期金利や債券価格の変動が激しくなり,FRB(米連邦準備制度)の金融政策が金融市場を通じて伝達していく経路が弱まる恐れがある。

 国際決済銀行(BIS)が今年6月に公表した「年次経済報告」においても指摘するように,ステーブルコインの普及は,中央銀行が金利政策や資金供給で経済をコントロールする力を弱めかねない。従来のユーロダラーは国際銀行システムの枠内に存在し,FRBの政策が間接的に作用していた。しかし,ステーブルコインはブロックチェーン上で匿名かつ分散的に動くため,金融政策の影響が届きにくい構造となっている。これは,マネーの一部が「見えないデジタル資金」となり,中央銀行のレーダーの外に出てしまうことを意味する。さらに,ステーブルコインは危機時に一斉償還が起きやすく,中央銀行が最後の貸し手として直接対応できない点も,金融安定上の新たな懸念となる。

各国の対応と新しい金融秩序の行方

 こうしたマクロ経済上のリスクを解消するものではないが,無秩序なステーブルコインの拡大を防ぐためのガードレール作りが進みつつある。米国は2025年7月に「GENIUS法」を成立させており,2027年からドル連動型ステーブルコインの発行ルールを統一する予定だ。この法律は,国内外の発行体に100%のドルや短期米国債による裏付けと,毎月の資産公開を義務付ける。透明性を高めることで,金融政策への影響や市場変動リスクを抑える狙いがある。

 シンガポールや香港もドルやそれ以外の通貨建てのステーブルコインの透明性と安全性を確保しつつ国際利用を後押しする方針を示しており,これによりアジアを中心としたデジタル金融ハブとしての地位を高めようとしている。

 一方,欧州連合(EU)は通貨主権を守るため,非ユーロ建てステーブルコインに対しては慎重な姿勢を取っており,世界は地域ごとに異なる戦略を描いている状況だ。こうした政策の違いは,将来的に国際金融の分断や新たなデジタル通貨圏の形成につながる可能性もある。

 ステーブルコインは,単なるデジタル版のドルにとどまらない。銀行を介さずに世界中でドルを保有し,送金できる仕組みは,国際金融のあり方を根本から変える可能性を秘めている。米ドルの覇権がより強固になるのか,多通貨のデジタル経済が広がり新たな秩序が生まれるのか。その行方は,これからの国際協調と規制の整合性にかかっている。私たちはいま,新しいお金の時代の入り口に立っているのである。

[注]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3952.html)

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