世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3130
世界経済評論IMPACT No.3130

世界は分からないことばかり

小浜裕久

(静岡県立大学 名誉教授)

2023.10.02

 学校を出てかれこれ50年くらい世界のいろんな国の経済について勉強してきた。筆者の能力不足か,それとも社会構造が複雑すぎるのか,分からないことばかりだという気分になることがある。

 このコラムでは,サイモン・クズネッツの言う「不思議の国アルゼンチンと日本」の経験を参照しながら,経済,政治,社会の「分からないこと」を考えたい。いろんな所に書いているようにアルゼンチンは筆者にとって思い入れのある国だ(例えば浅沼・小浜『途上国の旅』勁草書房,第5章参照)。何度も行って,勉強したつもりだが,分からないこと満載の国だ。いくつか昔話をしたい。

 1980年代後半だったか,アルゼンチン政府は直接投資を自国に呼び込みたいと言っていた。ホンダがアマゾン流域のマナウス自由貿易地域にオートバイ工場を持っていて,そこをベースにアルゼンチンに進出する計画があった。「ホンダは海外進出に積極的な企業だから,他の日本企業もその動向を注視している。ぜひ工業庁もホンダの進出を後押しすべき」だと何度も働きかけた。しかし,工業庁長官も次官も言を左右にしてはっきりした返事をしなかった。頭に来て,工業庁長官と次官を前に,机を叩いて,「あんたらアルゼンチンの工業化を進める気があるのか」と迫ったが,結局このプロジェクトはうまくいかなかった。

 これも1980年代後半だったろうか,UIA(アルゼンチン工業同盟)のセミナーで話をしたことがある。「アルゼンチンの企業は国内にあまり投資しない,それなのに外資に来て欲しいというのはおかしくないか」と言ったところ,UIAの会長が「こんな危ない国に投資できないさ」と言った。初めは冗談かと思ったが,本気だと知って,唖然呆然。

 次は友人から聞いた話だが,むかし東京で世銀,IMFのトップと日本の首相がアルゼンチンの債務問題について話す機会があった。日本の総理大臣は「借金は返すのが当たり前だよな」と日本語で呟いたという。多くの日本人は,借りた金は返すのが当たり前だと思っているだろう。でも,アルゼンチン政府は,対外債務をどうやって踏み倒すか,返すにしてもどうやって値切るかを考えているのだ。夏に髪の毛を短くするのはいいとしても,借金をヘアカットするのは趣味じゃない。

 今度は「不思議の国日本」。一番分からないことは,低金利・ゼロ金利政策。ゼロ金利政策が始まった頃,10年以上前だろうか,一人の日銀副総裁は2年もすれば日本経済は元気になると断言していた。2年経っても3年経っても元気な日本経済は戻って来なかったが,間違いを認めることもなく任期が来て彼は退任した。経済学の教科書を読み返すまでもなく,他の事情が同じなら,低金利は企業投資にはいい影響があるだろう。でも,低金利政策の最大の問題は,民間ではゾンビ企業が生き残ることだし,中央政府では,財政再建が遅れることだ。無駄な公共投資は政府債務を増大させる。それは将来の増税で返すのだろうか,ハイパーインフレにしてインフレ税で何とかしようというのか。

 次は「マクロ経済スライド」というごまかしはダメというお話。一見,1980年代の南米のハイパーインフレ下でとられたインデクセーションに似ているが,少し意味合いが違う。年金の「マクロ経済スライド」というのは,例えば物価が2%上がっても年金はインフレ率以下の1.9%しかあげません,ということだ。

 「マクロ経済スライド」という年金の仕組みで,年金は実質目減りしますよ,と政治家は誰も言わない,説明しない。野党も議会で反対しない。国民を騙すのは良くないことだ。財政が厳しいので,年金の「マクロ経済スライド」という仕組みを受け入れて欲しいと頼むべきだ。

 最後に「長期のエネルギー政策」について分からないことを書きたい。かつて2030年代に原発ゼロという政策が打ち出されたことがある。しかし,今では2030年のエネルギー供給の2割強を原子力で賄うという計画らしい。だが,2050年だとエネルギー供給シェアの計画は示されていない。

 現状では「核燃料サイクル」が計画通りに進んでいない以上,原発に反対の人びとが「トイレのないマンション」と揶揄するのは肯ける。日本で商業用原発が運転を始めたのは1966年。当時は発電コストが安い未来のエネルギー源と喧伝された。1970年に3基だった原子力発電所は,1980年には21基,1990年には39基,2000年に51基,2010年には54基まで増えた。

 福島原発事故のあと,人びとの原発に対する考えは大きく変わったが,それでも政府は原発の発電コストは,火力より安く,再生エネルギーの半分くらいという試算を公表している。どこまでをコストと考えるかは政策哲学の問題だろう。ドイツと日本のエネルギー供給構造を単純に比較するのは乱暴かも知れないが,どういう長期ビジョンを描くか,その背景にある哲学を政府は国民に分かりやすく説明しなくてはならない。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3130.html)

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