世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
「誰が見張り役を見張るのか」:香港とタイの事例から
(神奈川大学経済学部 教授)
2020.01.27
香港理工大学に立てこもり排除された学生が書き残したラテン語の箴言“Quis Custodiet ipsos custodes?”は,「誰が見張り役を見張るのか」という意味で,政治的な含蓄は「法を自分の都合に合わせて解釈する者が法の監視役に就いている」ことへの憤慨である。香港では,香港基本法が最高法規で他国の憲法に相当する。しかし,「一国二制度」と言いながら,その解釈権は中国全国人民代表大会常務委員会にあり,中国側に都合の悪い判決がでれば,中国政府は自分たちに不都合な判決は認めない。
私の研究領域であるタイにおいて,同様なことが2006年のクーデター以降継続している。憲法裁判所が恣意的な政治判断を下し,タイエリート層の既得権益を守る役割を果たしている。
憲法裁判所は日本ではなじみの薄い機関であるが,憲法に違反する違憲審査を行うための専門の裁判所であり,欧州大陸法諸国が採用している法制度にみられる機関である。ドイツは憲法裁判所をもつ典型的な国家で,現行憲法裁判所制度の成立はナチスの台頭を抑えることができなかった反省に関わっている。憲法裁判所は少数派の基本的人権侵害を防止するメカニズムを担う制度である。万一,国民の大多数が,ナチスが行ったような政策を支持しても憲法違反として阻止する役割がある。
タイにおける憲法裁判所は1997年憲法で創設された。それまで,憲法裁判所の代わりに,憲法裁判委員会が1947年から50年間違憲審査機能を担ってきたが,50年間で13件を扱ったにすぎず,ほとんどその役割を果たしてこなかった。1997年憲法はその草案過程に広く国民が参加した「人民の憲法」とされる。それまで任命制であった上院が民選となり,議員と閣僚は汚職を防止するため兼職が禁止されるなど,脆弱であった議会政治をタイに根付かせ,政党政治を強化するため強い政党と首相を創設する意図をもっていた。その一方で都市のエリート層がもつ,貧しい農村部や都市下層への民衆蔑視思想を反映し,代議士資格を大卒に制限した,一般的な大衆は被選挙権を否定された憲法でもあった。また,政治家を監査する制度として,特権的な7つの独立機関を創設した。この独立機関のうち最も政党政治に影響を及ぼしてきた機関が憲法裁判所であった。
1997年以降2006年9月のクーデターまで,憲法裁判所は310件の判決を下して違憲審査制度が機能してきた。しかし,2006年のクーデター以降,違憲審査制度は本来憲法裁判制度が持つ理念から大きく逸脱するものとなっている。司法主導政治と呼ばれる司法の政治介入が始まったためである。2006年4月25日判事の宣誓式でラーマ9世は混迷を深める政局を打開するため,司法が対応するよう訓示した。この訓示をうけて始まった司法主導政治は,バンコクの中間層,王党派,軍,官僚など保守的な既得権益層による,国民の多数派であるタクシン派への弾圧の道具となった。憲法裁判所は,2007年タイ愛国党の解党(この解党判決はクーデター政権の暫定憲法による憲法委員会が行った),サマック首相の解職,タイ愛国党の後継政党である国民の力党の解党,インラック首相の解職など,恣意的な司法判断を下してきた。これらの憲法裁判所の判決は,内外の法学者から,二重基準,事後立法,法正義にもとる判決などと,様々な批判を引き起こした。
2011年のクーデターでタクシン派インラック政権を葬った軍事政権は欧米諸国の批判を受けながら,軍事独裁を長期にわたり継続し,民主化から大きく後退した2017年憲法を施行し2019年3月のタイ総選挙に臨んだ。軍事政権が任命した上院250名が首相指名権をもつため,民選である下院500名のうち125名を獲得できれば政権を樹立できるというお手盛りのシステムを作り上げた上での総選挙であった。しかも,実際の選挙過程では,7つの独立機関の一つで選挙を司る選挙委員会が軍事政権の後継政党である国民国家の力党の政権樹立に資するよう様々な選挙結果の解釈を行い,現プラユット政権樹立に貢献した。また,新党にもかかわらず,反軍を掲げ草の根選挙を行い若者の支持を集めることで一挙に第3党の地位を占めた新未来党の党首タナートーン・チュンルンルアンキット(前回の投稿1452号でも言及)は憲法裁判所の判断で議員資格をはく奪され,同党は様々な「憲法違反」の訴訟を抱え解党の危機に直面している。タナートーンは「理不尽」な憲法裁判所の裁定を受けたが,「たとえ牢獄で死を迎えることになろうとも,次の世代のため民主主義を求める活動をやめるつもりはない」とマスコミのインタビューにこたえている。インラック前首相が2017年8月収監の恐れがあった判決が出る直前に海外に逃れ,支持者の落胆を招いたことと対照的である。2019年12月の世論調査(NIDA POLL)では首相にふさわしい人物のトップはタナートーンで31.42%,首相のプラユットが23.74%,野党タイ貢献党のスダーラットが11.95%であった。
2006年のクーデター以降タイの憲法裁判所がタイエリート層の特権擁護のため司法主導政治を行うことで司法の正当性は大きく揺らいでいる。幸い,2020年1月21日憲法裁判所は,訴訟内容が荒唐無稽で国民の反発を恐れたためか,新未来党が国王を元首とする民主体制を打倒するという憲法49条違反による新未来党の解党請求は退けたが,依然として予断の許さない状況にある。憲法裁判所が中立性を確保することを望みたい。このままではいつ国民の不満が爆発するとも限らず,タイの政治が一層の混迷を迎えるのではないかと危惧される故である。
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