世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1273

不信社会日本におけるキャッシュレス化のラストワンマイル

伊鹿倉正司

(東北学院大学 教授)

2019.02.04

 2018年末,政府は2019年10月に実施予定の消費税率引き上げによる国民負担の軽減策として,キャッシュレス決済を利用した支払いの5%分をポイントとして買い手に還元することを決定した。また同時に,中小小売店のキャッシュレス決済の導入を促進すべく,カード会社への加盟店手数料や決済端末の購入・設置費用について手厚い補助を講じることも発表された。実施に向けて極めて短期間で関係各所に対応が求められることや,平成最後の大盤振る舞いといえる政策の財源を確保できるのかという課題があるが,仮に実現できれば,わが国のキャッシュレス化にとって大きな弾みになるかもしれない。

わが国のキャッシュレス化の主な課題

 わが国のキャッシュレス化促進の動きは,2020年の東京オリンピック・パラリンピックの開催決定(2013年9月)後に活発化し,2017年6月に閣議決定された「未来投資戦略2017」において,今後10年間(2027年6月まで)でキャッシュレス決済比率を4割程度にする目標が掲げられた。さらには,2018年4月に経済産業省が策定した「キャッシュレス・ビジョン」では,2025年までにキャッシュレス決済比率を4割程度とし,将来的には8割を目指すことが示された。

 現在,わが国の消費支出に占めるキャッシュレス決済比率は2割程度にとどまり,他の主要国(韓国:9割超,英国:6割超など)と比較すると,その差は歴然としている。今後,キャッシュレス化を進めていくうえでクリアしなければならない主な課題としては,淵田康之「真のキャッシュレス化政策とは」(『財界観測』,2018年11月27日)が簡潔にまとめている。この論文で淵田氏は,わが国が実施すべきキャッシュレス化政策を「決済改革」と「現金利用抑制策」の2つに大別している。具体的な決済改革としては,統一的なモバイル送金サービスの導入や小口決済の常時即時化と中央銀行の対応,現金決済を上回る付加価値サービスの提供,現金利用抑制策としては,高額紙幣の廃止や現金による高額取引の禁止,少額硬貨の廃止が挙げられている。また,より広義のキャッシュレス化政策としては,川野祐司『キャッシュレス経済』(文眞堂,2018年)でも指摘されているように,適切な金融教育を通じた国民の抜本的なマインドチェンジも必要であろう。

 以上の政策は,キャッシュレス先進国である北欧諸国や韓国,中国,シンガポールなどでは多く導入されており,わが国においても政府が率先してイニシアチブをとることが期待されている。

キャッシュレス化の「隠れた足かせ」

 わが国におけるキャッシュレス決済の推進は,長年にわたって続いてきた現金決済という「制度」を変えていくことに他ならない。

 新制度派経済学の泰斗であるオリバー・ウィリアムソンは,制度を「社会に埋め込まれたもの」「制度的環境」「統治機構」「資源配分」の4つの階層に分類し,上位の階層に属する制度は下位の階層に属する制度を規定するとした。資金決済制度は上から2番目の階層の制度的環境に属し,10〜100年単位で変化するものと考えられる。最上位の階層に属するものとしては,規範,慣習,伝統などが挙げられ,100〜1000年単位で非常にゆっくりと変化するものとされる。では,このウィリアムソンの制度論を下敷きにしてわが国の資金決済制度を考えた場合,他国と比較して極めて強固といえる現金決済を規定する規範,慣習,伝統とはどのようなものであろうか。

 その1つの答えとして,筆者は日本人の「他人への信頼度の低さ」があると考えている。複数の大規模アンケート調査が示すように,世間一般の考えに反して,日本社会は他人をあまり信用しない社会(不信社会)といえる。

 世界60か国,約9万人を対象とした『World Values Survey』によれば,「あなたは他人を信頼できますか,それとも用心しますか」という質問に対して,信頼できると答えた日本人は35.9%であった。この数字は,全体平均の23.8%を上回っているが,主要国の中では最低水準の結果である。この調査は,1981年からこれまで6回にわたって実施されているが,日本人の他人への信頼度の低さは第1回調査から一貫している。ちなみに,他人への信頼度の高い国としては,ノルウェーやスウェーデン,フィンランド,中国,オーストラリアなど,キャッシュレス先進国が名を連ねている。

 米国の著名政治学者であるエリック・ウスラナーは,他人への信頼度と国レベルのイノベーション,国際化,情報化など間には強い相関が見られ,その国の経済成長や経済格差,汚職・腐敗などにも影響を与えると指摘している。キャッシュレス決済を利用する場合,事業者は利用者の購買データを入手することになるが,そのことに抵抗感を持つ人は少なくない。特に食品や日用品などの購買データは,利用者のパーソナリティを色濃く反映するものであるため,購買データを入手した第三者が自己利益のために搾取的な行動をとらないとする信頼が利用の前提となる。

 厳密な因果関係の検証は行っていないが,上記のキャッスレス先進国は,他人への信頼度の高さという素地があることで,キャッシュレス決済というイノベーションを大胆に推進できているのではないだろうか。一方,他人への信頼度の低いわが国においては,自らの購買データの第三者利用を嫌い,匿名性の高い現金決済が根強く選好されているのではないだろうか。今後,わが国でキャッスレス化を推進する際は,他人への信頼度の低さという「隠れた足かせ」も考慮する必要がある。

キャッシュレス化のラストワンマイル

 わが国を代表する社会心理学者であった山岸俊男は,著書『安心社会から信頼社会へ』(中公新書,1999年)において,これまでの日本社会は,関係の安定性(例えば集落など)がその中で暮らす人々に「安心」を提供しており,わざわざ他人が信頼できる人間かどうかを考慮する必要が小さかった,すなわち信頼をあまり必要としない社会であったと述べている。山岸氏の見解が正しいものだとすると,わが国の不信社会をあまり悲観的に捉える必要はなかろう。

 不信社会のわが国において,今後キャッシュレス化を着実かつ不可逆的なものにするには,信頼ではなく安心を基盤とした進め方が適切なのではないかと筆者は考えている。具体的には,「地域通貨」を活用したキャッシュレス化の推進であり,それによってキャッシュレス化を地域レベルから市町村レベル,都道府県レベル,そして国レベルへと拡げていく方法である。

 地域通貨は,いわば関係の安定性に基づいて発行される通貨であり,流通範囲が限定されている,使用の有効期限があるなどの特徴を有している。わが国における地域通貨は,ピーク時の2002年には120を超える地域通貨が発行され,これまで発行された地域通貨は900弱にのぼる。主な発行主体は,地域コミュニティ活動を行っているNPO法人や商工会議所であり,発行目的は地域経済の活性化や地域コミュニティの再生など様々である。

 わが国の地域通貨は,発行目的の不明瞭さ,運営体制の不備,通貨の滞留,認知不足などの理由により,ほとんどの地域通貨は消滅の運命をたどっているが,近年,自治体や地域金融機関,フィンテック企業が発行主体となって,スマートフォンやQRコードを活用した地域通貨のキャッシュレス化が進展している。わが国のキャッシュレス決済サービスは,主として「大都市圏」「若年層」「訪日外国人」にターゲットを絞った戦略がとられているが,地域通貨の活用を通じて,「地方」「中高年齢層」「中小小売店」をうまく取り込むことで,早期の「クリティカルマス(商品やサービスの普及が爆発的に上昇する分岐点)」の到達が期待できる。

 キャッシュレスは,その利便性は優れているものの,多くの人々に受け入れられる共感性や安心感が乏しい。一方,地域通貨は,その共感性や安心感は優れているものの,現金に比べて利便性が乏しい。キャッシュレスと地域通貨が結びつくことで,双方の欠点を補完し合い,お互いにとっての利用者とのラストワンマイルを埋めることができよう。

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