世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.978

水産養殖事業のイノべーション:日本水産(株)の黒瀬ブリの開発事例

髙井透

(日本大学 教授)

2018.01.01

 製造業分野でのイノベーションを説明する理論や概念は,経営学分野では数多く生み出されてきている。しかし,第一次産業でのイノベーションを経営学的に分析した研究は多くはない。もちろん,農作物分野などではバイオイノベーションなどの研究が盛んであり,経営学的な視点から分析した研究もある。しかし,水産業,とくに養殖事業については,近畿大学の養殖マグロの開発を歴史的に分析した著書はあるが,経営学的視点から分析した研究は多くはない。

 そこで本稿では,イノベーションを通じて自然の制約を打ち破っていく水産養殖事業の事例を外観することで,改めてこの分野でのイノベーションのポイントを探ってみよう。本稿で取り上げる事例は,2017年12月ブリ類としては世界初のASC(水産養殖管理協議会)認証を取得した日本水産(株)(以下,日水)の黒瀬ブリの養殖事業である。

 通常の養殖事業では,毎年4〜5月に天然ブリの稚魚(もじゃこ)を漁獲して,約1年半以上かけて成魚に育て上げるため,出荷が翌年の10月〜12月に集中することになる。しかし,この時期は天然ブリの出荷時期と重なるので,競争が激しくなり値崩れを起こしやすくなる。しかも,通常,養殖のブリは5〜6月に産卵期を迎え,その後は身が痩せてしまう。そのため,夏のブリは小売店では低価格で売られるが,決して美味しいものではない。とはいえ,大手スーパーなどから通年出荷を求められるため,多くの養殖事業者は収益を圧迫することになる3年魚を抱えることが必要であった。

 そこで日水が採った戦略は,10月〜翌年6月までは通常の養殖ブリを売り切り,7月〜9月に完全養殖ブリを出荷するというものである。ブリの品質がいちばん低下する夏に旬を持ってくるという戦略である。旬の時期をずらすには,天然の稚魚を捕ってきて,生け簀で餌を与えて育てる天然の養殖だけではなく,卵を採取して人工授精し,人工ふ化させた成魚から再び卵を採取する完全養殖が必要であった。つまり,人工種苗を用い,季節を変えて産卵させることで,成熟してもその影響が少ない程度の大きさで通過させて,夏場にいいブリを出荷するという技術開発を狙ったのが黒瀬ブリである。この黒瀬ブリの特徴は,通常の養殖ブリが3年程度の期間を要して出荷されるのに対して,2年程度で出荷が可能になることから若ブリとも言われている。

 ブリの成熟を誘導する環境要因というのは,水温あるいは光周期など様々な要素があるが,そのうちどの要因がブリの成熟化を促すホルモン遺伝子の発現に強く働くのかということを研究開発の成果として日水の研究所は蓄積していた。その成果をベースに,研究所に隣接する施設を設け,そこで親魚を陸上の水槽で育て産卵させる。その際に水槽の明るさを調整し,日の出や日の入りの時期も照明で組み替える。また水温も,冬場でも夏と錯覚させるために水槽の水温を26度〜27度程度にし,夏場は逆に15度程度に設定する。このような飼育プロセスによって早期採卵に持ち込み,この業界の常識を覆す夏に出荷を可能にしたのが黒瀬ブリである。そして,この黒瀬ブリの市場ブランド化を決定づける要因になったのが,餌に対するイノベーションである。

 そもそも養殖の生産性アップの鍵になるのが,餌のイノベーションである。養殖業では,経費の6割から7割をエサ代が占めているだけではなく,味を決める重要な要因でもあると同時に,競合他社と決定的な差別化を生み出す要因でもある。差別化を可能にしたのが,ブリの血合いの退色を抑える機能性飼料マブレスである。マブレスとは唐辛子などの天然成分配合の飼料で,この飼料は,時間が経過すると茶色ぽく変色するブリの血合いの退色を遅くし,鮮明な赤色を長く保つことが可能であった。当時,関西地域の市場は先発企業に抑えられており,輸送に時間を要する東京以北が市場開拓の地域として有望だった。そのため,血合いの退色を抑えることは,日水にとって市場を開拓する上での重要な課題であった。

 日水はマブレスを水揚げする前の仕上げ時期からブリに与えた。そうすると,血合いの退色を遅くし,鮮明な赤色を長く保つという効果だけではなく,脂がのり,しっかりとした食感を実現することが可能になった。FCR(増肉係数)も,既存の養殖魚とほとんど変わらなかった。しかも,時間が経過するとともに,東京以北の市場ニーズにマッチするような食感を生み出したのである。今や,黒瀬ブリは日本だけではなく,一部輸出するまでのブランド魚に成長している。

 それでは,本稿の事例から学ぶべきイノベーションのポイントを探ってみよう。当初,日水の本社はブリだけではなく多様な魚を養殖することを期待していた。しかし,養殖事業分野でのイノベーションやシナジーのロジックは,製造業のそれとは大きく異なる。とくに,製造業のように簡単に技術の横展開ができないことである。製造業の分野であれば,コア製品があれば,製造スキルをはじめ部品などの共有化を進めることが可能である。しかし,養殖事業の場合,魚種によって育成,餌の与え方などが極端に異なってくる。研究に関する総合的な技術力は必要ではあるが,簡単にはシナジーを創り出すことはできない。事実,ブリとマグロでは,人間と牛ぐらいの違いがあるとも言われている。

 最初から多様な養殖魚を手がけることは,豊富に資源を有している日水にとってもマネジメントが難しかった。そのため,ブリなどの特定の魚種に絞り込んだことは,戦略的にも意味が大きかった。しかし,資源豊富な大企業であればあるほど,この絞り込みが難しくなる。新規事業では,一気に大きなヒットを生みだそうと考えるからである。また,大企業は,新規事業と既存事業という二項対立で捉える傾向にある。とくに,本業での売り上げが大きければ大きいほど,その傾向が強くなる。

 そのため,規模の大きい企業は,集中あるいは絞り込みのデメリットだけを捉える傾向がある。しかし,集中が行われるからこそ企業として焦点が絞られ,イノベーションの連鎖という効果を生み出すことになる。本事例でいえば,ブリの人工種苗を突破口に餌の開発などのイノベーションが連鎖していくことになる。経営資源が豊富で,資源分散を招きかねない大企業の経営ほど,資源の集中がイノベーションを創造する上で必要不可欠な条件なのである。

[謝辞]黒瀬ブリの事例については,日本水産(株)から多くの協力を頂いている。ここに記して感謝の意を表したい。

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