世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
トランプ氏と「利他性の経済学」
(共立女子大学国際学部 教授)
2017.10.09
ロバート・ライシュは著書で,2014年にトランププラザが倒産,1000人ほどの従業員が失業したのに,トランプ氏はツイッターで投資引揚げは最高のタイミングだったと自賛していたことを紹介している。トランプ氏の人柄がうかがえる話だ。大統領になったトランプ氏の掲げるAmerica Firstも,パリ協定,TPP離脱にみられるようにナショナリズムというより国家エゴイズム(ボウルズやギンタスの用語によれば内集団ひいきを意味する「偏狭な利他主義」)と理解した方が適切に思われる。これらの政策は特定の地域・業界・階層にとっての直感的に解りやすい損得計算から導かれ,米国あるいは世界全体の最適という体系的,長期的視点を著しく欠いている。こうした国家エゴの淵源がトランプ氏個人の強烈な性格,個人的属性にあることは明らかだろう。勿論,これまでもヒットラーを始め多くの個性的指導者には同じように自国民優先の「利己的」な傾向がみとめられる。
セドラチェクは「善」の応酬性への信頼度にもとづく善悪軸にそって経済思想を位置づけている。両極の一方には無私の善を求めたカントを,他方には公共心や利他心を詐欺,徳をおだてと自尊心の結合,悪徳が幸福を大きくするとしたマンデヴィルを対置する。マンデヴィルの『蜂の寓話』はアダム・スミスが『道徳感情論』のなかで厳しく批判したものである。今日主流の新古典派経済学は,プラトンやアリストテレスらのストア派は勿論,エピクロス派や功利主義よりも最もマンデヴィルに近く位置づけられている。この善悪軸はカントの義務論,アリストテレスの徳倫理学,ジョン・スチュアート・ミルの帰結主義といった道徳哲学を背景にしていると思われるが,端的にいえば,この座標軸は利他性と利己性の対立軸とも換言できよう。
マンデヴィルを批判したスミスだが,皮肉にも,その『諸国民の富』に始まる,私的利益を追求する合理的経済人を前提とした新古典派経済学では,利己的人間の間にも,囚人のディレンマの反復(「繰り返しゲーム理論」)によって,協力行動が発生する可能性が示されるが,協力や規範遵守といった社会的行動を一般には説明できない。
ノーベル経済学賞を受賞した心理学者カーネマンらによって拓かれた新しい経済学である行動経済学では,人間の利己性に反する人間行動の解明が進められており,利己性に反する行動として協力行動や罰行動が取り扱われている。2008年の金融危機を予想できなかったグリーンスパン元FRB議長も回顧録で行動経済学の重要性を指摘しているように,行動経済学は金融危機を契機に,経済主体の合理性への強い疑念から,脚光を浴びるようになった。今後,個人の心理的行動を超えて,相互に作用し合う人々の集団行動,とくに個人の行動が集団全体に及ぼす帰結を理解することに関心が及ぼう。スミスやヒュームには社会における協力関係が利他的感情,共感,同情,罪悪感などの道徳感情に基づくことについての洞察があるが,長く等閑視されてきた。
利己主義の生物学的解説としてはドーキンスの『利己的遺伝子』が広く知られる。ダーウィンの適者生存を,個体ではなく,遺伝子で捉え,「道徳的」行動や利他的行動が,自身のコピーを増やしてゆく利己的な生き残りのみを考える遺伝子による利己的行動だとした。しかし,近年誕生した神経経済学はこれを否定する。神経経済学は神経科学の経済学への適用である。その成果の一つにポール・ザックの道徳分子(Moral Molecule )がある。うつ病と脳内分泌物セロトニンの関係は知られているが,道徳分子もオキシトシンという脳内分泌物である。ザックによれば,スミスやヒュームの「人間の共感」,道徳感情は信頼,苦悩,思いやり光景がきっかけとなって記憶が蘇る。そして,これがオキシトシンの分泌を促し,さらにドーパミンとセロトニンの分泌につながる回路が作動する。さらに,オキシトシンは共感を生み,道徳的行動をとらせ,それが信頼につながり,信頼がさらにオキシトシンの分泌,共感という善循環を形成するという。イェール大学のロバート・シラー教授も神経経済学によって経済学は造り変えられるとしている。
ところで,佐和隆光京大名誉教授は保守とリベラルの差異の根源について,貧困の原因を努力不足のような自己責任ととらえるか,努力したが病気や家庭の事情,災害など本人の力の及ばない環境によるととらえるか,いずれもあり得ることだが,直感的にどちらにより重きをおくかが大きな価値観の相違につながるとする。そしてその差異が例えば社会保障政策の在り方など政策の相違になるという。筆者も同感だが,やがて保守とリベラルの差異も脳内分泌物の違いによって説明されるのではないだろうか。
行動経済学や神経経済学の発展によって,トランプ氏や公私混同,「世のため,他人のため」の志より「自分のため」に政治家になったような人,さらには立派な経歴ながら人格を疑われる暴言をはく輩など,「劣化」が著しいとされる我が国政治家の属性も,分子生物学レベルで解明される日がくるかもしれない。
AIなど進行する第4次産業革命による格差の拡大は,もはや賃金は限界生産力に等しいといった「利己」をベースとした新古典派による所得分配の理論では解決されない。ベーシック・インカムが議論され,既にフィンランドで試行されているように,「利他性の経済学」の進展が期待される。
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