世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.720
世界経済評論IMPACT No.720

トランプ氏の誤解

西 孝

(杏林大学総合政策学部 教授)

2016.09.19

 2016年アメリカ大統領選挙における共和党の候補者ドナルド・トランプ氏は,その過激な公約で話題(と笑い)を集めている。その中でも飛び切りおかしかったものに,「FRBに紙幣を刷らせて,日本や中国への借金を支払う」というのがあった。彼にとっては,貿易赤字を通じて発生する対外的な債務が「飲み屋のツケ」のようなイメージだったのかもしれない。とはいえこれは過激である以上に単なる誤りである。メキシコとの国境に万里の長城を築くことは,少なくとも技術的には可能であるが,こちらはそうはいかない。彼の側近には経済面の参謀もいるであろうに,もし注意しそこなったのであれば,ここでそれを論ずる意味もあるに違いない。

 今仮にアメリカが日本や中国に対してドル紙幣で債務を支払ったとしよう。それを受け取った日本や中国の債権者はそのドル紙幣をずっと持ち続けるだろうか。まさかそんなことはない。ドル紙幣は持っているだけでは増えないし,日本国内で使うこともできない。だからふつうはそれを米国債や直接投資という形で運用するであろう。そう,そしてそれはまさに今現在すでにそうなっているのである! それだけのことだ。FRBが何度新たに紙幣を刷ろうが同じことが繰り返される。結果として出回るドル紙幣が増えるだけであり,アメリカの対外債務は少しも減少しない。

 日本や中国の債権者にとってドル紙幣(外貨)は,その他の米国債などと同じ「ドル資産」の一つである。資産を紙幣で持つか,預金で持つか,国債で持つかは保有形態の問題であって,それによって債権や債務の額が増えたり減ったりするわけではない。もっとはっきり言えば,人は今持っている「お金」で債務を減らすことは,正確にはできない。借金を払うために今持っているお金を使ったのであれば,債務(借金)を減らすために資産(今持っているお金)をそれだけ減らしたにすぎないからである。純粋に「債務だけ」を減らしたいのであれば,新たにお金を「稼ぐ」しか方法はない。

 その意味でアメリカが日本に対して対外債務を返済するには,「円」を「稼がなくては」ならない。刷ったドル紙幣を引き渡すだけではだめである。それではアメリカは円債務を減らす代わりにドル紙幣という資産を日本の債権者に渡していることになり,差し引きで債務は減っていない。通常はアメリカが日本に財貨やサーヴィスを「売る」ことなどを通じて,「円」を「稼ぐ」ことができる。資産の交換ではなく,「稼いだ円」でなければ債務を本当に返済することはできないのである。

 そう考えると,実は「飲み屋のツケ」というイメージもさほど悪くはないのである。われわれがツケを払うための唯一の方法は,働いて稼ぐことである。ツケを「私の発行する借用証書」を発行して,それに換えたところで事態は何も変わらない。私は相変わらず負債を抱えたままである。というより,本来ツケそのものが一種の借用証書なのである。誰かから借金をしてツケを払っても,借りている相手が変わっただけで,やはり債務に変化はない。貯金があればそれを取り崩してもいいが,その場合は負債(ツケ)が減った分だけ資産(貯金)も減っており,差し引きで考えれば,純資産に変化はない。要するに「稼ぐ」しかないのだ。

 それは国と国についても同じである。おそらくトランプ氏は,アメリカのドルが持っている「国際通貨」としての特権を思い浮かべていたのかもしれない。しかし,国際通貨としてドルがどれだけ特権を持っていても,以上の話は基本的には変わらない。むしろドルの特権とは,アメリカがこれほどの対外的な債務を積み重ねることができたことを説明しているのである。「アメリカの発行する借用証書」は世界中で受け取ってもらえたということだ。しかし,それを返す方法については,また別の話なのである。強権をもって踏み倒すのでない限りは,飲み屋のツケが気になるわれわれ庶民と変わりはない。

 おそらく混乱の源は「お金」という言葉それ自体にある。われわれが懐に持っているのも「お金」であり,人から借りるのも「お金」である。そしてわれわれが稼ぐのもふつうは「お金」である。

 財布や銀行に持っている「お金」は「資産」であり,ストックである。いわば風呂桶にたまっている水の量だ。稼いだり使ったりはその増減であり,水道から注がれる,あるいは栓を抜いた時に流出する水の量である。これはフローと呼ばれる。たまった水の量はマイナスにはならないが,負債の話がしたければ,今度は負債の量を風呂桶の水に例えればよい。水道から出るのは負債の増分であり,栓を抜いて流出するのは,負債の減少分である。

 経済学の入門授業の最初の方で学ぶ概念も,しっかりと学べばアメリカ大統領候補の誤解を正すことができる。そう捨てたものではない。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article720.html)

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