世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.698
世界経済評論IMPACT No.698

TPP批准に向けて動き出した米政府

滝井光夫

(桜美林大学名誉教授,国際貿易投資研究所客員研究員)

2016.08.22

 TPP(環太平洋経済連携協定)の細部を巡る議会との決着はまだ付いていない。しかし,遂に米国政府はTPP批准に向けて,動き始めた。その第一歩が,8月12日,USTR(米国通商代表部)が議会に提出した行政措置声明の草案である。政府がTPP批准に向けて回し始めた歯車は,法制上止められないし,逆回転もあり得ない。

 行政措置声明(SAA, Statement of Administrative Action)とは,米国の国際法,国内法との関係で見たTPPの解釈と運用および現行法の改正点を規定したもので,TPPを批准し,施行するためには不可欠な文書である。SAAの最終テキストの確定には議会の採決は必要ないが,SAAは政府と議会が作成するTPP批准法案の基礎となるため,最終テキストの確定には議会の関与が必須となる。政府が議会に「草案」を提出するのは,政府が一方的にSAAを定めるのではなく,議会との協議を経て最終的なものにするという意味を持つ。

 TPPは,2015年6月に成立したTPA(貿易促進権限法)に規定された手続きに従って批准される。TPAの106条(a)(1)(D)は,SAAの草案が政府から議会に提出されると,その少なくとも30日後には,議会との協議を経て最終的なものとなったSAAが,TPP批准法案の草案およびTPPの最終テキストと合わせて,政府から議会に提出されると規定している。政府が議会に提出するTPP批准法案(TPP Implementation Bill)の草案は,政府と下院歳入委員会(委員長はケビン・ブレディ,共和党テキサス州選出)および上院財政委員会(同オーリン・ハッチ,共和党ユタ州選出)との間で精査され,「モック・マークアップ」と呼ばれる逐条審議を経て,最終的なTPP批准法案が確定される。

 この確定されたTPP批准法案は,下院の歳入委員会と本会議で審議,採決された後,直ちに上院の財政委員会および本会議で審議,採決される。この間の審議期間は,最長で下院は60日(歳入委員会45日,本会議15日),上院は30日(財政委員会15日,本会議15日)の,合計して最長90日と規定されている。なお,日数は暦日ではなく,議会開催日で計算する。

 TPAにより一旦議会に提出された批准法案は修正することは認められていない。政府も議会も,貿易協定の締結までには多大の時間と労力を費やしているから,間違いなく批准法案が成立するように,批准法案の確定に万全を期す。同時に,政府も議会も賛成票の確保に全力を注入する。これまで貿易協定批准法案は,下院の反対で審議がやり直された例が1回だけあるだけで,否決された例はない。

 11月8日の大統領・議会選挙が終わり,レームダック会期を開いて,TPPを批准するというオバマ大統領の方針は揺らいでいない。民主党のクリントン候補も共和党のトランプ候補もTPPを批判し,クリントン候補はレームダック会期での審議に反対している。しかし,5年半に及んだ困難な交渉を成し遂げ,今後,環太平洋諸国に拡大して行く歴史的な貿易協定を締結したのは,大統領である自分なのだというオバマ大統領の自負は強い。大統領には,我が政権下で批准されなければ,TPPは日の目を見ないかもしれないという懸念もある。まずSAAの確定,そして最も重要なTPP批准法案の確定に要する作業日数を考えれば,この時期に政府がSAA草案を議会に送ったことは,必然的なことであった。

 議会は,政府が議会に何の相談もなくSAAの草案を提出したことに反発している。しかし,主要企業のCEOが集まるビジネス・ラウンドテーブルは,政府の草案提出を歓迎する声明を出している。声明は出していないが,TPPを推進する全米商業会議所,全米製造業者協会,TPP支援連合も同様に歓迎している。

 今後の展開で注目すべきポイントは,第1に,政府と議会が9月末頃までにSAAの最終テキストを確定することができるか否か,第2に,政府がTPP批准法案の草案をいつ議会に提出するか,そして第3に,政府と議会が最終的なTPP批准法案をいつ完成できるか,である。もし,SAAの最終テキストの確定が遅れれば,TPP批准法案の草案の議会提出も,押せ押せで遅れてくる。

 ここで欠かせないのは,オバマ大統領のTPP批准に賭ける強い決意と議会に対する行動である。TPPという歴史的協定を批准し,発効させた大統領として歴史に名を残すか,歴史的快挙を達成しながら,批准できなかった大統領として名を残すか。ここ2,3ヵ月が天下分け目の勝負となる。

 大統領選挙戦では,トランプ候補の劣勢は一層はっきりしてきた。イラクで戦死し,金星章を授与されたパキスタン系米国人弁護士の子息と母親に暴言を吐き,予備選挙ではライアン下院議長とマケイン上院議員を支持しないと公言(後に撤回)し,支持率は急落した。その後も,オバマ大統領とクリントン候補はISIS(イスラム国)の「生みの親」だと公言し続け,共和党政権の元閣僚,補佐官50人余から「トランプ候補は米国の最高司令官としての資格がない」との烙印を押された。現在の予想では,トランプ候補の獲得代議員数は全体の13%で,クリントン候補の地滑り的勝利(ニューヨーク・タイムズ)とも伝えられる。

 共和党大統領候補の体たらくは,オバマ大統領がTPP批准に動き出す契機にもなったはずである。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article698.html)

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