世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
金融リテラシーより危機的なのは理工教育の空洞化だ
(元信州大学先鋭研究所 特任教授)
2025.12.15
11月26日付のCNNニュースによると,米国海軍新型フリゲート艦建造計画が最初の2隻以降は中止になった。他のソースの記事もあわせ,総合すると,建造費高騰だけではなく納期の大幅遅延が原因とされている。米国の造船能力が危機に瀕している状況が窺える。単に自動車や家電を米国内で組み立てるのではなく,ほとんどの部品を米国内製にして,モノを製造する能力と技術の裾野が失われている米国の現状が現れている記事である。
近年,日本の初等中等教育において「金融リテラシー教育」を拡充すべきという議論が急速に広がっている。資産形成の早期開始,ライフプランニングの重要性,NISAの普及など教育内容を更新していくこと自体は是とすべきだろう。しかし,その一方で,理科や数学といった基礎科学教育の重要性が相対的に軽視されつつある兆候は看過できない。金融リテラシーはあくまで「生活の技能」の一部であって,国の産業競争力を支える根幹ではない。にもかかわらず,金融教育の枠組みばかりが整備され,科学的素養を育てる教育への政策が後退するのであれば,それは国家の未来を危うくする政策である。
我が国にとって初等中等教育段階での理科や数学は,単なる教科の一つではなく,ものづくり産業,医療技術,環境・エネルギー分野まで,国の基盤そのものを成す「知的インフラ」である。自然現象に触れ,定量的に考えることで得られる思考習慣は金融教育の座学では到底代替できない。今日の実態は実験・観察に時間を割くことが難しくなり,教員の技術的素養の不足も重なって,理科や数学本来の活力が失われている。金融教育を取り入れるとしても,理数教育を犠牲にするような選択は決して許されるものではない。
この問題の背景には,現場の教員が技術系の知識や科学的リテラシーを十分に持たないまま実験や教材を扱わざるを得ないという構造的課題がある。教員の負担軽減が政策目的となるのは理解できるが,現状では,教員研修の多くが手続き中心で,科学的知識を体系的に学ぶ機会が乏しい。代わりの有効な手段として,大学や研究機関に所属する若手研究者を教育現場に積極的に取り込む仕組みが挙げられる。彼らは専門的な知識を持ち,最先端の研究に触れているだけでなく,教育現場に新しい刺激をもたらす存在でもある。こうした取り組みにおいては,形式的に教員免許の有無を問うべきではない。むしろ,専門性に基づく多様な人材が学校教育に関与することが,子どもたちの好奇心を喚起し,教員の負担を軽減し,教育の質を高める。費用を含め,制度として整備する価値は十分にある。
実際に金融経済的な観点から生まれた「過度で形式的な安全管理」が,初等中等段階だけではなく大学でも科学実験の実施を著しく阻害している。例えば,薬品の使用を極端に制限する,火を使う実験を禁止する,ガラス器具の使用を避ける,といった対応が広まり,実験そのものが骨抜きになっているケースが多い。安全管理は当然重要だが,「リスクゼロ」を至上命題にしてしまえば科学実験は成立しない。理科教育の核心は,リスクや危険性を理解し,適切に扱う態度を学ぶことである。冗談のようだが,「火を見たことがない,火の消し方を知らない」という学生が増加し,仕方なく火を使わせないというとんでもない事態になっている。経験と知識を養う実践を排除すれば,科学的思考力は育たず実験を通じた本質的な学びは失われてしまう。
こうした流れを見ると,サッチャー政権期に見られた「金融経済の効率性を優先し,産業を切り捨てる戦略」の負の側面が遠からず日本にも現れることが予見される。サッチャー首相は,英国病の原因であった高インフレ,頻発する労働組合のストライキ,非効率な国営企業などを是正するため新自由主義を採用し,金融のビッグバン,金利引き上げを通じた金融引き締め,国営企業の民営化による労働者数の大幅削減,製造業を中心とした労働組合の権限を法律で制限などを敢行した。しかし,その結果英国は製造業の空洞化を招き,長期的な産業基盤の衰退という代償を支払うことになった。金融市場の整備は重要だが,ものづくりや技術の蓄積こそが日本の比較優位を支えてきた柱である。教育政策偏重の思想が入り込めば,理工系人材の育成が遅れ,産業の競争力は確実に低下する。
‘89年にリバプールの近郊に居住した筆者が目にしたのは,造船ドックの閉鎖による20%を超える失業率,敵対的ストによる鉄道の麻痺,自動車産業の急激な衰退であった。シティの金融発展は世界を席巻したものの,ロンドン以外の産業都市ではHigh Street (繁華街)はゴミだらけ,落書きだらけ,駐車中の自動車のタイヤは盗まれるという状況であった。’90年になるとそれまで原材料を製造していた地域のメーカーが軒並み閉鎖され,調達先を大陸に求めることが頻繁になった記憶がある。
さらに問題なのは,マスコミ,とりわけオールドメディアの報道姿勢である。テレビや紙媒体は「絵になる工業製品」や「完成品のデザイン性」ばかりを取り上げ,その背後に広がる膨大な部品産業や精密加工技術,部品のすり合わせによる品質確保といった日本の産業の強みを十分に伝えようとしない。昨今はAIの進展が大きく取り上げられているが,「AIがあればものづくりの大半は自動化できる」といった短絡的な報道も散見される。しかし,実際の産業現場では,微細な誤差調整,現場判断,長年の経験にもとづく技術が不可欠であり,これらは現行のAIが代替できる領域ではない。実態を伝えないまま華やかな部分だけを映し出せば,国民の産業理解は歪み,政策判断にも悪影響を及ぼす。メディアには公的性質を踏まえてよりバランスの取れた情報発信が求められる。
繰り返しになるが,金融教育の強化そのものを否定するつもりは全くない。しかし,①金融偏重の教育政策,②理工系教育の空洞化,③教員の科学的素養不足,④過度な安全管理,⑤産業の実相を伝えない報道,この五つの問題が複合的に作用すれば,日本の技術力と産業基盤は確実に弱体化する。私たちがいま取り組むべきは,金融だけに焦点を当てる教育ではなく,「科学・技術・産業」を国家の根幹として再び位置づけるための教育改革である。そのためには,学校現場での理科・数学教育の強化,大学・研究機関との連携,科学的リテラシーを備えた教員の育成,そして報道の改善を含む社会全体の意識改革が必要である。
我が国の金融リテラシーはG7各国より低いかもしれない。しかし,サッチャリズムのような金融中心に物事を進めてしまうと衰退に繋がる。内閣官房参与の加藤康子氏の受け売りになってしまうのだが,鉄を作れない国家は滅びへと進む。
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