世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
高市政権への期待:日本はデジタル先進国への扉を開けるか
(慶應義塾大学 教授)
2025.10.27
高市早苗首相の言葉には,国家を思う真摯な意志と現実への危機感がある。就任直後から「強い日本を取り戻す」と語り,自らの言葉で国民に訴える姿勢や,各大臣に具体的な指示書を出したことは,久しく見なかったリーダー像を思わせる。
一方で,その経済政策の内容は歴代政権が掲げてきた課題の延長線にとどまり,現時点では実行像がまだ見えない。
言葉から実行へ―デジタル国家への壁
持続的な賃金上昇を実現するには,労働生産性の向上が不可欠だ。そのためには行政・企業・社会全体のデジタル化を進め,情報が正確かつ迅速に流れる仕組みを整えなければならない。
ところが日本では,税・年金・社会保障などのデータベースが省庁・自治体ごとに分断され,相互に連携していない。例えば,国税庁の所得データは年金機構や自治体と自動照合できず,給付金や補助金の支給に膨大な人手と時間がかかる。
行政構造と法制度の壁がデジタル化を妨げている。縦割り行政が続いており,データ共有を「権限の低下」と見なす意識が根強い。しかも個人情報保護法や税・年金関連法の目的外利用制限によって行政間の情報共有が難しい。
「給付付き税額控除」のような制度を実現するには,税や社会保障の情報を統合できるデータ基盤が不可欠だ。
デジタル化が進めば,給付金の自動支給や対象を絞った的確な企業への補助金支援,医療・介護分野での経費削減とサービス向上が両立可能になる。
それを欠けば,どんなに立派な理念を掲げても,人手不足が深刻化し行政の負担も重く,しかも対象を絞った効果的な経済政策は限定的になる。紙とハンコの文化を改められるかどうかは,首相のリーダーシップにかかっている。
データ共有社会の可能性を示す例として,北欧のエストニアは先進的である。ほぼすべての住民にIDが配布され,公共サービスの多くがオンラインで対応でき,税務・医療・教育・福祉の情報が統合されたデジタルプラットフォーム上で共有されている。確定申告や住民手続きは数分で完了し,医療機関間でカルテや検査結果を共有できる仕組みが整っており,同じ検査を繰り返す無駄がほとんどない。
政府が個人情報を扱う際には,誰がいつアクセスしたかが本人に通知されるという仕組みもある。情報を守ることと,活かすことが両立している。データ連携が進む国では,行政コストの削減と民間サービスの効率化が実現している。
アジアのデジタル統合と日本の遅れ
一方,アジア・中東でデジタル化が加速する中,日本はその潮流の中心にはいない。シンガポールは2023年にステーブルコインの規制枠組みを施行し,香港も今年8月に発行者ライセンス制度を正式に施行した。いずれも国際金融ハブとしての地位を強化する狙いがある。
さらに,東南アジア諸国連合(ASEAN)ではQRコード決済の相互接続が広がり,インドやUAEとの連携も始まった。中国ではデジタル人民元(e-CNY)の国際実証を香港,タイ,UAE,サウジアラビアなどと進め,シンガポールでは観光客がe-CNYを利用できる実証も始まっている。
シンガポール,タイ,マレーシア,フィリピン,インドなどが参加する国際決済銀行(BIS)の「Project Nexus」では,60秒以内に送金を完了させる国際プラットフォーム構築が進められている。
アジアが中東を巻き込みつつ「デジタルで結ばれた経済圏」へと移行しつつあり,経済統合を下支えしている。日本が円の国際化を進め,日系企業の海外ビジネスをデジタル決済で下支えするためにも,クロスボーダーのデジタル基盤整備が欠かせない。
実行の時―強い日本とは何か
アジアの人々が日本を訪れて驚くのは,デジタル化の遅れである。高市首相が真に「強い日本経済」を取り戻したいのであれば,まず政府自身がデジタル化を進めなければならない。データをつなぎ,信頼に基づく共有社会を構築することが,すべての政策の出発点になることを首相の口から国民に語ることが重要だ。
行政が効率化されれば企業の生産性が上がり,賃金上昇へとつながる。さらに,食料安全保障を唱えるなら,デジタル農業やIoTを活用して若者が魅力を感じる仕組みを作るべきだ。医療支援を語るなら,カルテや検査結果の共有によるムダ削減が不可欠である。あらゆる改革の根底には,デジタル化という「見えないインフラ」がある。
いま問われているのは,理念ではなく実行だ。政治と国民の間に透明な信頼を築くデジタル国家へ転換できるかどうか。
高市政権が,情熱ある言葉を,「仕組みの改革」に変えられれば,日本は再びアジアの中心に立てかもしれない。その第一歩は,政府が自らの非効率を直視し,紙と縦割りの文化を手放すことにある。強い日本とは,静かに仕組みを変える勇気から始まるのである。
[参考文献]
- 白井さゆり「ステーブルコイン台頭,世界の相互接続に乗り遅れるな」日本経済新聞,経済教室,2025年10月21日掲載。
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