世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2875
世界経済評論IMPACT No.2875

社外の英知が私の書いたものを評価した:自分の考えを臆せず社内外を問わず公にせよ

小林 元

(元文京学院大学 客員教授)

2023.03.13

 私はすでに本欄で述べたようにビジネスマンとして大手企業で40年余り海外事業に専念した。日本企業では企業の都合でいくつかの業務に配置転換しジェネラリストを育成することを目指す。しかし私は入社時希望する職種欄には「海外事業」と書き込み,入社初年から常にこの分野でのスペシャリストを目指し自己研鑽,今でいうリスキリングを繰り返した。5年間駐在し経営を担当した中南米での企業は同地域では数少ない成功例として通商広報にて評価されたし,イタリアでは14年間住み着いてイタリア人の優れたマーケティング力と日本の技術力を融合させて日本企業として初めて「イタリアNO1の中堅企業」と現地経済誌に評価されるまでに育て上げた。内地勤務時には事業の「選択と集中」によって非戦略事業となった会社の整理と清算を担当(これは難事であり―特に開発途上国では自らの命を懸けてやる位の勇気がいるー又うまくやっても社内で評価されないことを皆知っていて,手をださないなかで)自ら突破策を提案し,5つの案件を処理した。

 以上の成果に対して会社は私に部長職の地位を与えてくれた。それはそれで大変有り難いと思っているのだが,このように業務を遂行しているうちに思ってもみなかった社外の方面に私の進むべき道が広がって行ったのである。

 30歳代の半ば中南米の会社経営の任務を終え帰国し欧阿米州事業を担当する課長職についたが,私は自分の担当業務だけでなく,会社の海外事業全般の状況を務めて理解するようにした。次にやったことは海外事業を進めている他社はどのような問題にぶつかり,それをどのように解決しようとしているかを知りたいと思った。企業研究会という団体に海外事業をやっている会社の幹部社員の勉強会があるのを知り参加した。1970年代の後半であった。ここで海外事業に本格的に進出している企業の幹部と議論を交わすことが出来たのは幸せであった。80年代の半ば私がイタリアの関係会社に出向することになった時,会の座長から「当会のBusiness Researchという月刊誌にあなたが見たヨーロッパの生の情報を書いて欲しい」との依頼を受けていた。着任してからしばらくの間は仕事と現地に適応することに精一杯でとても原稿を書ける余裕はなかった。

 その時間が取れるようになったのは90年代に入って,会社が年々増収増益の軌道に乗ってき来てからであった。基本には日本が開発した独創的な技術があるのだが,イタリア人は,この製品に我々が気付かなかった特性を見いだし,彼らの伝統的な「感性マ―ケティング」でヨーロッパの消費者の心をとらえ市場を拡大していったのである。私は日々彼らと接していて,このマーケティング力の背景には彼らの豊かなライフスタイルがあると確信するようになった。そこで私は自分が肌で感じた彼らの生きざまを上記の月刊誌に3年ばかりかけて32回にわたって書いた。しかし反響はほとんどなく,わずかに94年に大阪の中小企業の団体のミッションが来伊し,当時脚光を浴びていたイタリア中小企業の競争力の秘密についての資料を調べていたら,私の論文に目が留まったといって講演を依頼されたぐらいであった。

 96年になって,「イタリアにおける日本」という日本政府が主催する大規模なイベントが行われることになり,当時の駐伊大使英(はなぶさ)氏の下で30いくつかの催しが開催されることになった。当時私は在イタリア日本企業商工会議所の副会頭をしていたから,この催しに会議所として協力し,大使としばしば接触する機会があった。

 私は自分が書いたものが,ひょっとして大使のお役に立つかもしれないと思い,手渡した。翌日大使から電話をいただき「君これはものすごく面白いよ。今まで知らなかったイタリア人の生きざまが見事に描かれている」というコメントをいただいた。

 それから数週間ぐらいたったころ,再度大使から電話をいただき「君の原稿をイタリアに来られているアサヒビールの樋口会長にお見せしたところ,大変興味深く読まれて,これは日本で出版すべきだ,帰国したら日経新聞社のTopに話しておくから著者に伝えておいてほしいと。また自分も同社には知人がいるから頼んでおく」のことだった。私が書いたものがそんなに偉い方,日本の英知ともいえる方がたに評価されたのかと自分自身驚いたものである。樋口会長は当時経団連の副会長でこのイタリアでの催しの担当をされていた。

 出版につぃて私は正直なところ半信半疑であったが,1か月ほどたって日経BP社の編集委員からミラノの私のところに電話があり,「一時帰国の際,出版について打ち合わせたい」との話があり,これは本物だと身が引き締まる思いだつた。

 1998年私が書いたものが同社から「人生を楽しみ懸命に働くイタリア人」というタイトルで出版された。その後日経新聞社から加筆されたものが「人生を楽しむイタリア式仕事術」というタイトルで出版され,2冊をあわせると2万冊近く売れたと聞きうれしかった。

 またこの著作はイタリア語に翻訳され現地で出版された。

 この本の出版は私のビジネスマンとしての在り方に大きな影響をあたえた。

 99年61歳で帰国すると10近い大学から講義をしてほしいとの依頼があり,その中には客員教授,非常勤講師として,イタリアビジネス論,ライフスタイル論,国際経営論の講座を持ってほしいという依頼があった。また各地の中小企業の団体からイタリア中小企業の競争力について学びたいからと講演の依頼が応じきれないほど舞い込んだ。

 私は自宅に「小林国際事務所を」もうけ,3つに大学に講座を持つ傍ら,日本各地を飛び回る生活が70歳になるまで続いた。この間に共著を合わせて8冊の著作を公にした。

 また思わぬところから私のイタリアにおける活動に対し大きな評価をいただいた。

 2004年に在日イタリア文化会館から「マルコポ―ロ賞」を授与され,2006年にはイタリア政府から「コメンダトーレ(連帯の星騎士勲章)」が授与されたのである。

 当時の在日イタリア大使によると「日伊経済連携のモデルとなる大変優れたALCANTARA社を育成したことはもとより,今まで知られていなかったイタリア人のライフスタイルを日本に紹介してくれた功績に対するものである」と。

 私がビジネスマンとして仕事を進めていく過程で社外の研究会誌に自分の考えたことを書いたことが私という人間の活動分野をこのように会社の外に大きく広げていってくれた。

 私は今80歳代半ばであるが,自分の人生を顧みるとき,後に続くビジネスパ―スンに次の言葉を告げたいと思う。「社内に閉じこもってばかりいないで,社外に臆することなく出てゆき,自分の考えを公にせよ。それを理解し手を指しのべてくれる人は必ずあらわれる」と。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2875.html)

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