世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2796
世界経済評論IMPACT No.2796

タイ国憲法裁判所の変化の兆し

山本博史

(神奈川大学経済学部 教授)

2022.12.19

 軍事政権が起草した現行憲法では首相の在任期間の上限を8年と規定している。2022年8月24日タイの野党は憲法裁判所にプラユット首相の在任期間に関する判決を求めた。プラユット首相は2014年のクーデター後,同年8月25日に首相に就任して以来在任期間が8年に達するからである。憲法裁判所は9月30日にプラユット首相は現行憲法が施行された2017年4月6日から首相になったとの判決を6対3で下した。これまで軍事政権に有利な判決を出し続けた憲法裁判所判事3分の1が首相任期延長を支持しなかったことに少し意外感があるが,大方の予想通り現政権に有利な判決であった。タイの憲法裁判所は軍,王党派,官僚ら既得権益層の利権保持の政治的道具となってきたが,その変化の兆しが見え始めた。

 憲法裁判所は日本ではあまりなじみがない制度だが,本コラムNo.1609の「誰が見張り役を見張るのか」でも述べたように,違憲審査を担う機関である。その出処は,ナチスのユダヤ人虐殺の反省に立ち,国民の多数の支持があったとしても,少数派の人々への基本的人権侵害が行われないようにするため成立した。タイでは憲法裁判所ができるまでは憲法の解釈権は国会にあり,憲法裁判委員会が違憲審査を行っていた。この委員会は1947年から50年間で13件を扱ったのみで,ほとんど機能してこなかった。

 1997年憲法の目的は強い政党,強い政府の創造であった。一方で,汚職に染まりがちな政治家を監査するため,憲法裁判所など7つの独立機関を創設した。この憲法裁判所は2006年のクーデターまでに370件の違憲審査を行った。しかし,クーデター以降は,クーデター当事者,あるいはそのバックにいる保守勢力が憲法裁判所など独立機関を使い,民主化に逆行する決定を行うようになった。憲法裁判所や選挙管理委員会は民主勢力からは二重基準,法正義にもとる判決などと批判を浴び,司法主導政治と呼ばれて,その政治関与を批判されてきた。また,2019年3月の総選挙への憲法裁判所や選挙管理委員会による軍事政権維持に向けた露骨な介入は,学生たちの反政府運動を引き起こした。

 憲法裁判所の政治介入の起源はラーマ9世が2006年4月判事の宣誓式で混迷する政治情勢打開へ司法が積極的に対応するよう訓示したことにある。10年以上に及ぶ民主化潰しの司法介入の根幹にタイの支配構造と王制の問題があることに,庶民,特に若者達が覚醒し,王制改革を叫び始める遠因ともなった。彼らの多くはタクシン政権を倒したクーデターを称賛していた人々,タイの既得権益側に立ってきた中間層の子弟であった。戦後ラーマ9世が苦労して築きあげた,神聖にして侵すべからずとでも言うべき,王制に対する言説空間(ディスクール)が崩壊を見せ始めている。当局は不敬罪により弾圧しているが,王制への敬意は地に落ち,王制批判を封じることはできていない。

 現在の下院議員の任期は2023年5月7日であり,その日までに総選挙が予定される。2021年9月政権与党国民国家の力党は野党タイ貢献党と共同で大政党に有利な選挙制度改革を行い,1997年憲法と同様の選挙制度に戻した。国民国家の力党は前回の総選挙では議席数は2位であったが得票率は最大であったため,改正は自らに有利と考えたようである。ただ,与党は2022年5月のバンコク知事選で大敗し,バンコク都議選でも4%の議席と惨敗した(本コラムNo.2611「バンコク都知事選挙にみる王制をめぐる言説空間の変容」参照)。危機感を抱いた現政権はタイ貢献党の議席を抑え込むべく,比例区の議席は比例区総投票率から計算した割合が議員定員全体の割合を超えれば議席を配分しない現行制度へ再度戻すことを画策し,成功するかに見えた。しかしプラユット首相への与党内部の反発もあり,国会での審議が期限の8月15日までに成立しなかった。審議未了の場合は最初の案である1997年憲法の選挙制度になることが法で定められている。ここで憲法裁判所の登場となる。つまり,牽強付会の解釈でプラユット首相を守ると考えられた。しかし,現実は国会議員105名による1997年憲法に戻ることは憲法違反であるとの提訴に対し,11月30日憲法違反でないとの判断,つまりタイ貢献党に有利な1997年憲法の選挙制度を支持する判決を下した。

 11月30日の判断は,プラユット首相やその支持層にとってはまさに青天の霹靂であったろう。2014年のクーデター以降一貫して軍事政権を支持してきた憲法裁判所が初めて「裏切った」からである。詳しく分析する紙幅もないが,タイ国民の意識,王室への言説空間が変化したことに起因すると思われる。軍事政権へのバンコクの中間層からの支持は凋落し,学生による2020年からの反政府運動は王制改革を含むため,不敬罪でリーダーたちを捉えている。しかし運動は下火になる気配はない。今後の展開を見ないと断言できないが,憲法裁判所の9名の裁判官も社会の変容に対応し始めたのかもしれない。タイの民主主義が一歩前進する希望が見えた今回の憲法裁判所の決定であった。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2796.html)

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