世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2611
世界経済評論IMPACT No.2611

バンコク都知事選挙にみる王制をめぐる言説空間の変容

山本博史

(神奈川大学経済学部 教授)

2022.07.25

 5月22日にバンコク都知事選挙と都議会議員選挙が行われた。チャットチャート・シティパンが都知事選に勝利した。チャットチャートはインラック前タイ貢献党政権の運輸大臣であった人物である。今回の選挙の有権者数は440.2万人で投票率は60.7%であった。当初からチャットチャートの優勢は伝えられていたが,138.6万票51.8%を獲得し,2位の民主党候補スチャットチャウィーの25.4万票を5倍以上の大差で破り,予想を超える圧勝となった。

 今回の都知事選は与党軍事政権勢力と野党反軍勢力に対するバンコク都民の支持の変化を読み取ることができる。2019年3月の総選挙でも軍事政権への反発は,新未来党(解党のうえ党首脳16名が公民権を停止され,残された議員が前進党を「結成」した)への青年層の熱烈な支持や,タイ貢献党の最大議席獲得にもみられたが,今回の選挙でプラユット首相らクーデター勢力への嫌悪がより一層明確になった。

 本コラムNo.1308「タイ総選挙を考える」でも述べたように中華系が多いバンコクの保守的なエリート層はタクシン政権(2001〜2006年)の登場まで,田舎の農村部を「支配」してきた。しかし,タクシン政権により多数派の農村部の人々は政治に覚醒し,民主主義を錦の御旗として選挙には勝利し続けているにもかかわらず,バンコクの保守的既得権益層に潰されるこの20年であった。

 そのバンコクの保守層が軍事政権とそのバックにある王制にそっぽを向き始めた。2020年3月の新未来党の解党でバンコクの保守層の子弟である若者の反政府活動が学生を中心に燃え上がり,タイ王制のありかたへの異議も掲げて,都市下層と農民層と連帯し始める。この反政府運動は現政権が強力に弾圧しているが,学生指導者を不敬罪で取り締まっても,抑え込むことはできていない。首相に対する批判は高まるばかりであり,政権与党の国民国家の力党内部からも不協和音が聞こえるようになっている。

 チャットチャートはタイ貢献党からではなく無所属として出馬したが,タクシン派のタイ貢献党とは同盟関係にあり,タイ貢献党は今回の都知事選に候補を擁立しなかった。都知事選と同時に行われた都議会議員選挙から政党支持の現況が明らかになる。都議会選の結果は,50議席のうち,タイ貢献党20議席,前進党14議席,民主党9議席,ラック・バンコク派(アサウィン前都知事を支持するグループ)3議席,国民国家の力党2議席,スダーラット派タイ・サーン・タイ党2議席となった。スダーラット派はタイ貢献党の内部対立で別れた分派である。政権与党は内部分裂から,国民国家の力党とラック・バンコク派に分かれて戦った。50議席のうち野党が36議席で,政権与党は実質5議席と惨敗した。

 タクシン派は選挙によって選ばれた統治を求めてきたが,その運動は,王制,軍,官僚,大資本家などのバンコクの既得権益連合体と激しくぶつかり,クーデターやディープ・ステイト論の一形態である司法主導政治により,民主的な選挙で選ばれた政権は葬られてきた。その中心にはチャクリー王家が19世以降発展させてきた,タイ固有の政治的伝統に立脚した公的国家イデオロギーである「タイ原理(ラック・タイ)」がある。国家,宗教,国王という三位一体のタイ原理への国民の擁護義務は憲法でも明記されている。ラーマ9世は1932年の立憲革命で奪われた伝統的な王権を「国王を元首とする民主主義」体制として王政復古を成し遂げた。しかし,君主が実権を握るこの統治体制は国民の国王への忠誠が必要で,ナショナリズムと同様に想像による言説空間の共有がなければ成り立たない。その言説空間が今危機に瀕している。

 今回の選挙結果から,バンコクの若者たちだけでなく,クーデターを支持していたその親の世代がタイの国体である王制,軍,官僚,大資本家などの既得権益の連合体への異議を明確にし始めたことが読み取れる。この異議申し立ては,国王による政治介入を正統化する言説空間が崩壊し始めたことを物語っており,タイの民主化への希望がみえ始めた。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2611.html)

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