世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
混乱を招く突然のウクライナ・モルドバ地名の呼称変更
(高崎経済大学 名誉教授・元(公社)日本地理学会 会長)
2022.05.23
ロシア語からウクライナ語・ルーマニア語読みへ突然の変更
外務省はウクライナ政府の意向を踏まえ2022年4月1日に官房長名で「日本政府として,ウクライナの首都等の地名の呼称をウクライナ語による読み方に基づく呼称に変更する」旨を各府省に伝えた。これによりウクライナの地名について日本政府では首都「キエフ」を「キーウ」,「ドニエプル」を「ドニプロ」,「チェルノブイリ」を「チョルノービリ」などとロシア語読みからウクライナ語読みに変えている。また,5月13日にはモルドバ政府の要請を踏まえ,首都「キシニョフ」を「キシナウ」にするなど,各省庁作成文書のモルドバ地名をロシア語読みからルーマニア語読みに変更すると発表した。
ロシアによるウクライナ侵略は武力で主権及び領土を侵害する国際法および国連憲章違反であり,「ウクライナ及びウクライナ国民に寄り添い,事態の改善に向けてG7を始めとする国際社会と連携」(外務省)を示すための呼称変更という。また,モルドバ地名の呼称変更も「ウクライナからの避難民を受け入れるモルドバへの連帯を示す狙い」(上毛新聞2022.5.14)という。現下の国際情勢や日本の立ち位置,大半の国民の意向を勘案すると早急に両国へ寄り添う姿を示したい気持ちは理解できる。
しかし,報道機関をはじめ関係機関は政府方針に従い行動を開始する。その結果,首都など主要都市は「キーウ(キエフ)」などと示すため混乱しないが,突然「ドニプロ」と示されても「ドニエプル」であると理解できる人は非常に少ない。また,今後日本政府の表記変更に合わせるとした報道機関も「チョルノービリ原子力発電所」とせず,ロシア語読み「チェルノブイリ」が散見される。親しみある地名の呼称変更は簡単に徹底できず,国民生活に大きな影響・混乱をもたらす。
突然の地名変更で影響の大きい教育現場
主要な地名の国民教育は,学習指導要領をはじめ一定のルールで作成された初等中等教育の地理教科書・地図帳で行われ,地図上の地名・地域性とその位置関係を理解・記憶することで国民共通の地理空間認識が形成される。国民の世界観構築の基盤となる検定教科書や学校地図帳と異なる地名への急な呼称変更は,教育現場に混乱を招く。
たとえば,国際河川などはどの様にすべきか教育現場では悩むであろう。ロシア語読みの「ドニエプル川」はロシア,ベラルーシ,ウクライナの3国を流れる。「ドニエプル川」はすべて「ドニプロ川」にするのか,国毎に異なる河川名とするのか指針もない。無数にある地名すべてをロシア語読みからウクライナ語読みに変えることも不可能である。一定の範囲に限定しても短期間ですべての教員・児童・生徒に変更内容の徹底は難しい。入学試験の採点においても学校や採点者によって基準が異なる可能性もある。首都は新聞や放送でキーウ(キエフ)とされ,しばしば耳にするので問題は少ないであろうが,他の多くの地名は専門家でない限り,両語読みの混在で混乱することになろう。
地名変更には国家地名委員会を設置し十分な国民的議論と告知期間を
地名はそれぞれの国・地域の空間認識・歴史認識の道標・シンボルである。その呼称は永い歴史・文化の結果として定着・使用されている。一度記憶した地名の変更は難しく,頭の中の地図を混乱させ,空間に関する判断を妨げる。また,経済負担も発生する。かつて政令指定都市の市バス停留所名変更に係わった際,たった一停留所でもシステムへの書き換えなどの諸費用に約5千万円といわれた。永年使用された地名の変更は,様々な形で国民生活への影響が大きい。
それだけに地名およびその呼称変更には十分な国民的議論と慎重審議が不可欠である。議論なくして突然の政府通達による地名呼称変更では報道機関や大手企業などは可能な範囲で政府の意向に沿うが,多くの国民は無理である。今回のような事態下で,変更を知らずにロシア語読みを使っているとロシアに加担と取られかねない雰囲気すら感じる。国民の分断を煽る恐れのある政策には問題がある。
地名は国際関係・国政・日常生活に非常に重要な役割を持つ。そのため,主要国では地名のあり方や地名政策,国家間の地名紛争に対応する国家地名委員会が設置され,国連で国際会議も開催している。しかし,日本には国家地名委員会がなく,日本海を東海に変えようとする韓国にも十分対応できていない。日本にも早急に国家地名委員会を設立し,地名のあり方,基本指針を示し,地名変更にも十分な国民的議論を経た変更が必要である。それにより平成大合併時の新市町名混乱など各種地名問題も解決しやすくなるであろう。
[参考]
- ①外務省「ウクライナの首都等の呼称の変更」2022年3月31日
- ②外務省「モルドバの首都等の呼称の変更」2022年5月13日
- 筆 者 :戸所 隆
- 分 野 :特設:ウクライナ危機
- 分 野 :国際政治
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