世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2075
世界経済評論IMPACT No.2075

キャンセル・カルチャーと文化大革命

藪内正樹

(敬愛大学経済学部経営学科 教授)

2021.03.08

 2020年アメリカ大統領選挙は,ネットで情報発信する方々のお陰で,アメリカの政治と社会への理解を深める良い機会となった。多くのテーマの中で,キャンセル・カルチャーについて考えたい。これは,メディアを通じて個人や企業に非難を集め,社会的にボイコットする運動を指す。2015年から言葉として使われ,2018年から運動として盛んになった。非難の理由は差別反対で,その点は1980年代からのポリティカル・コレクトネスと同じだが,ポリコレが言葉や表現の是正なのに対し,キャンセル・カルチャーは社会的追放を目指すボイコット運動である。

 ボイコットが始まると,SNS利用者であれば,直ぐに賛成を表明しないと容認したと見なされ,非難される側になる。逆に素早く賛成を表明すれば,意識が高いことをアピールできる。こうして運動は爆発的に広がる。その際,非難された側に反論や弁明の機会が与えられたとしても,正義の側であることに気を奪われた人々は聞く耳を持たない。あるいは非難される恐怖から逃れるため,不寛容あるいは暴力的にさえなる。その暴力は,正義を主張する者にとっては正当なのである。

 そうした恐怖心と暴力を利用して大衆を操ったのが,毛沢東の文化大革命だった。毛沢東思想を基準に個人の言葉や生活態度の正しさを相互に監視させ,革命に反対している疑いのある者を密告するよう奨励した。密告されれば晒し者にされ,自己批判するまで糾弾された。人々は密告される恐怖から逃れるために他人を密告し,ついには親兄弟まで密告する者もいた。

 毛沢東革命の妨げとなる要因といえば,2000年来の四書五経を基本とする知識人の思考形態と,日本の和製漢語を通じて入ってきた西洋近代文明だっただろう。それらを中国中心の文明に置き換えるため,経済発展と個人の人間性を犠牲にしたのが文化大革命だったと考えられる。

 キャンセル・カルチャーの延長線上に現れたのが,2019年8月のニューヨーク・タイムズの特集記事「1619プロジェクト」だった。特集は,黒人の父と白人の母を持つジャーナリスト,ニコル・ハンナ・ジョーンズが編集者となり,以下のような黒人中心史観を主張した。アメリカの真の建国は,最初の黒人奴隷がバージニア植民地に連れてこられた1619年8月であり,アメリカ史は黒人迫害史である。1776年の独立戦争も,奴隷制維持が主な動機だった。そして初代大統領ワシントンと第3代大統領のジェファーソンは奴隷を所有し,リンカーンも先住民抑圧を正当化した差別主義者だった。

 1619プロジェクトは,黒人も含む歴史学者や,リベラル陣営も含むメディアなどから,史実の誤認や曲解を指摘され,批判された。しかし,プロジェクトの前書きには「歴史と黒人アメリカ人の米国への貢献を理解する方法を再構成した」とある。つまり,プロジェクトは学術研究でもジャーナリズムでもなく,政治主張である。黒人中心史観を主張するなら,国家の歴史とは別の黒人史を書くしかない。近年の左翼の手法,現在の価値観で過去を断罪し,権威を引きずり下ろして権威になり替わろうとする歴史修正主義に他ならない。しかし,ハンナ・ジョーンズ氏の文章は,翌年のピュリッツアー賞を受賞し,民主党の地盤の学校では教材に使われるという。1619プロジェクトは,アメリカの分断の象徴,または火に投じられた燃料となった。

 2013年から始まったBlackLivesMatter(黒人の命も大切だ,または黒人の命こそ大切だ)運動の後も,白人警官による黒人殺害事件は起きていたが,2020年5月のジョージ・フロイド氏の事件に対する抗議行動は,全米140都市で暴動化する異常事態となった。明らかに1619プロジェクトが燃料を注いだのだ。

 政治目的によって歴史を書き変える試みは過去にもあった。一つはGHQによる占領政策である。日本の国柄や欧米帝国主義からのアジアの自立などを論じた7769点の書籍を没収し,NHKラジオで日本軍の悪行愚行をシリーズ放送し,公職追放の後のポストに協力者を配して,日本人の精神的武装解除を行った。

 もう一つは,民主化のパラドックスとも言われる,韓国左翼の潮流である。麗沢大学客員教授の西岡力氏が紹介した,主体思想派と呼ばれる韓国与党の思想は次の通り。李承晩は銃弾の1発も撃たず,アメリカの力で初代大統領になった。用いたのは日本時代に育成された人材。だから大韓民国は成立から穢れた国であり,その後も清算が済んでいない。北朝鮮こそが,貧しくとも民族の自主性を純粋に守る正しい国である。

 2019年7月,李栄薫元ソウル大学経済学教授ら6人の学者が,資料分析による経済史学の手法で,日本統治に対する韓国社会の通念を覆す『反日種族主義』を発行した。11万部のベストセラーになったが,強烈な反発も受けた。しかし,根拠を示した反論は一切ないという。「日帝の侵略,略奪,陵辱」という出来上がった通念は,議論すら許せないない人が多いようだ。

 2021年1月28日,ハーバード大学のジョン・マーク・ラムザイヤー教授が論文「太平洋戦争における性契約」をInternational Review of Law and Economicsに掲載した。論文要旨は,戦前の遊郭における売春婦と楼主の契約と,開戦後の軍慰安所における慰安婦と事業主の契約を比較すると,多額の前借金に応じた年季奉公と毎回の売上の分配という形態において同じというもの。韓国で報道されるや大騒ぎになったが,『反日種族主義』と同様,根拠を示した反論はない。議論すること自体を許さないのだ。3月初めには,韓国留学生会の提案をハーバド大学学生会が受け入れ,ラムザイヤー教授に公式謝罪を要求するという。

 元日本共産党職員でジャーナリストの篠原常一郎氏は,日本にも主体思想派が「自主の会」と称して浸透しており,アイヌと琉球人は被差別先住民族だという運動を展開していると紹介している。反論が難しい正義を掲げ,検証も議論も許さず糾弾するキャンセル・カルチャーは,伝統的価値観や歴史の積み重ねを否定し,権威を奪い取る目的で,世界を吹き荒れている。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2075.html)

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