世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
Brexit交渉の現状から浮かび上がる1つの疑惑:英国政府内は既にEU残留を目指す方向で立場が一致?
((公益財団法人)国際金融情報センター ブラッセル事務所長)
2018.09.10
英国のEU離脱(Brexit)交渉は一向に打開の様相がみえてこない。EUの憲法に相当するリスボン条約は,全てのEU加盟国が合意すれば,離脱時期を延期することができると規定している(第50条)。もっとも,このハードルは極めて高い上に,来年5月に欧州議会選挙が控えていることなどを踏まえると,仮に延期が合意されても大幅な猶予は想定し難い。交渉が妥結するか否かにかかわらず,英国の離脱通告日から2年後の19年3月29日23時(英国時間)にBrexitが実現する蓋然性は非常に高いと言える。
巷には,英国とEUが激変緩和のための移行期間を設けることで合意しているため,実質的なBrexitは移行期間満了予定の20年末だと楽観する向きも多い。もっとも,移行期間はあくまで秩序だった離脱を前提としている。すなわち,英国とEUの間で離脱協定が締結されていなければならない。それには,英国領北アイルランドとEUを構成するアイルランド共和国の間に税関のような物理的境界を設置しないまま,いかにして北アイルランドを英国本島とともにEUから切り離すか,という矛盾した要請(アイルランド国境問題)への解決が不可欠である。これを先送りしたままでは移行期間に入ることはできず,約半年後に無秩序な離脱(cliff edge)が起きることになる。
しかし,ここに1つの疑惑がある。それは,既に英国政府はEU残留の方向で密かに意見が集約できているのではないか,というものである。離脱手続を定めるリスボン条約の第50条は,離脱通告が撤回できるか否かについて記していない。逆説的に言えば,これは撤回できないことを意味している訳ではない(欧州司法裁判所が否定的な解釈を示している訳でもない)。実際,EU首脳からは英国に離脱通告を撤回するよう促す発言が繰り返されている。
英国政府が(ひょっとすると当事者達も気づかぬ内に)離脱撤回で纏まっているかもしれない,という見立ては,メイ政権の分裂振りとそれに伴うBrexit交渉の苦難に満ちた経緯を振り返ると,荒唐無稽に映るであろう。また,EU関税同盟・単一市場からの離脱を含むハードBrexitが英・EUのみならず世界全体にとっても不利益ばかりのlose-lose-LOSE gameである,という厳しい現実から目を逸らすための希望的観測と捉えられるかもしれない。それでも,こう考えることによって,英国の交渉姿勢に得心がいくようになる。
現在の英国はEU加盟国の中で破格の特別扱いを享受している。ユーロ圏への参加義務を免除されているほか,EU予算への拠出も一部が返金されている。こうした経験から,英国は離脱後も現状に準じた特別待遇をEUから引き出せると予想していた。具体的には,EU単一市場の構成要素のうち,移民の受け入れを伴う人の移動だけ排除する一方で,財・サービス・お金の取引は摩擦なく行うこと,EUの立法・司法管轄から外れ完全な主権を取り戻すこと,などである。
しかし,域内の連帯を重視するEUは,身内に甘い反面,外に出ようとする者に対しては,英国が予想していた以上に厳しかった。EUが英国のいいとこ取りを認めない以上,Brexit後の英国はどうしても今より損な対EU関係に陥る。これを他の国・地域との関係強化により相殺する見通しが立っていない中,現状維持(=EU残留)は,経済的な観点から英国にとって最適な選択である。もちろんアイルランドの一体性や安定も維持できる。もっとも,それらにも増してこの方針が魅惑的なのは,誰も致命傷を負わないという点である。メイ首相は,16年6月の国民投票の時点では残留派であったものの,離脱という民意を受けて首相に就いた手前,それを前提にしつつ,EUから少しでも良い条件を引き出そうと努力してきた。
にもかかわらず,離脱交渉における英国の劣勢は明らかである。英国がドイツやオランダの製品の一大顧客であることや英国の誇るテロ対策・安全保障のノウハウは,期待した程有効な交渉カードにはならなかった。加えて,国内の強硬離脱派(反EU )と残留・穏健離脱派(親EU)の対立が,一貫した対EU交渉を難しくしている。ブラッセルにやられっぱなしのまま時間切れでは,EUから数々の譲歩を引き出してきた故サッチャー元首相も浮かばれないだろう。
それでも,交渉期限が迫る中,英国政府はもっとなりふり構わずEUに揺さぶりをかけることはできないのだろうか? むしろ,最近のメイ首相の言動が概ねEUの主張に添ったものに変遷していることからも,好条件での離脱は不可能だと諦めているようにすら見受けられる。EUを批判し強硬な離脱方針を掲げてきた閣僚達ですらも,一線を退いたり発言を抑制したりするようになっている。不利な離脱によって英国経済が混乱や低迷に陥った場合に責任を追及されるリスクが現実味を増している結果だと推測される。彼らにとっては,いっそBrexit自体が実現しなければ,残留後に生じる雑多な問題をあげつらって「だから離脱しておくべきだった」と批判することができるので,政治的に余程無難である。
では,なぜ英国政府は残留を目指すと宣言しないのだろうか? ここでカギとなるのは,民主主義との折り合いをどのように付けるかである。残留の場合,先の国民投票で示された民意に反するかたちになるため,政治家としては,民意を問い直さなければならない。しかし,国論が割れた今の状態で国民投票を行っても,改めて離脱が選択されないとも限らない。残留の民意を確実にするには,Brexitの悪影響を国民に身近に感じさせた上で,選択肢をハードBrexitか残留かという両極端な2つに絞る必要がある。さもなければ,国民は「EUから離脱しても,今と同等の経済関係は維持できる」という都合の良い言説に再び流されてしまうだろう。
つまり,メイ政権が今行っていることは,極論すると,そこまで事態が切迫するのを待っている,ということではないだろうか。政府が8月下旬にcliff edgeの注意喚起文書を国民に向けて公表したことは,そうした着地への地均しのようにみえる。メイ首相が国民投票の再実施を打ち出すタイミングとしては年明け早々が考えられよう。その頃であれば,もう離脱協定を英国とEUの双方で批准する時間は残っていないため,国民投票での選択肢を上述の2つに限定できる。
こうした見方を裏付けるような確たる材料は現時点では存在しない。したがって,cliff edgeという最悪の事態への備えを怠るべきではない。逆に,最終局面ギリギリで穏当な合意が実現することへの希望が絶たれている,という訳でもない。ただ,Brexit交渉の低調振り,特に英国側の動きの鈍さをなんとか合理的なものとして捉えようとすると,そのように思えてならない。仮にそうだとすれば,現下のBrexit交渉は世紀の茶番,メイ首相はさながら現代に甦った啓蒙専制君主,と言えるだろう。これは,極めて危険な賭けである上,国民に対する重大な裏切り行為ともとられかねないものの,大衆迎合的ポピュリズムの行き過ぎが生んだ当然の反作用なのかもしれない。
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