世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.815

国歌を知らない危ういグローバル人材

安積敏政

(甲南大学経営学部 教授)

2017.03.27

 「グローバル人材」という言葉は,新聞・雑誌・テレビなどの媒体で常日頃,頻繁に見聞きする日本人の関心ある言葉である。連結売上高が国内偏重のサービス産業にあっては,東証一部の上場企業であってもその有価証券報告書の中の『経営リスク』や『経営課題』の頁には,「為替リスク」や「環境リスク」と同列に「我が社のグローバル人材の不足が今後の海外事業展開のリスクにつながる恐れがある」と堂々と書いてある。

 一方,各大学で公開されている紹介パンフレットやホームページのサイトにも,都会の大規模大学から小さな地方都市の学部数・学科数が限られる小規模大学に至るまで例外なく「我が大学は,21世紀の人材づくりのためグローバル人材の育成に注力している」と書いてある。少子高齢化の社会で,構造的に減り続ける受験生や入学者数を確保しようとすれば「世界で通用するグローバル人材」の育成をキャッチフレーズに訴え続けざるを得ないようである。教育界,産業界,官界のいずれにおいても,「グローバル人材」が今日不足していて,ボーダレス化する世界の政治・経済環境の下では今後はますます数と質の両面で必要になるというのが共通の認識なのであろう。

 各大学における「グローバル人材」育成制度を見ると,そのサポート機関は「国際交流センター」や「留学センター」といった名前がついており,その内容は海外の提携校を対象とした語学力強化カリキュラム中心の交換留学や,3カ月や6カ月対象の純粋な語学研修プログラムである。語学研修主体のプログラムについては,ついでに経営学とか経済学といった専門科目の履修や異文化経営といった科目も履修ができるといった程度で,専門知識の無さと基礎英語力の低さから米国やカナダや英国に留学しても「日本的経営」や「日本異文化経営」の科目を履修して単位(クレジット)を取って帰って来る。僅か数単位であっても海外の大学で単位を取ったという事実には間違いないが,その留学目的と親の経済的負担の大きさからすると一笑に付すことはできない。今日では,昔のように学位取得を最終目的とする長期の「留学」と語学研修や異文化体験を主体とした短期の「遊学」の区別はなく,世間体からか大学を仲介とする海外研修はすべて『留学』という名前を付けているのが実態である。

 筆者は,海外留学の相談に来る学生や留学から帰国したゼミ生に対応して10年となる。帰国後,留学体験報告を詳細に聞き,現地大学で取得した語学単位を中心とした単位と,自校での互換単位シートに承認の押印をする際には毎度のことながら心が痛む。留学先の大学の寮で一緒に住むルームメイトやホームステイ先のご家族と話す会話で「日本を語れない」という厳然たる事実である。

 例えば,フランス,サウジアラビア,コロンビアや韓国から来たルームメイトは,いずれも自国の政治,経済,社会,文化,歴史などについては大学生としてそれなりに語れるが,自分に対する『日本はどうですか』という質問に対して答えに窮するというのが毎年,帰国学生から聞かされる共通の悩みである。日本人の貧弱な語学力やシャイな性格が原因ではなく,自分が生まれ育った日本についての基本的な知識や理解そのものが貧弱だからなのである。その上,世界から来た各国の留学生が,自分なりの世界観,国家観,社会観,宗教観,職業観,人生観,夢を語れるのに対して,日本から来た自分が明確なものを持っていないことに衝撃を受け,「海外から来ている留学生は,びっくりするほどしっかりしていた」という帰国コメントにつながっている。筆者は,日本の大学生が他国の学生に能力的に劣っているとは全く思わない。但し,日本の「グローバル人材」を育成する理念,教育するプロセスや中身に致命的な難点があるのではないかと懸念している。

 多くの識者,専門家が「グローバル人材」や「グローバル人材育成」について語っている。「なるほど」,「流石だね」と思う反面,聞くたびに釈然としない部分がある。国際企業に勤めていた元企業人としての立場からすれば,「グローバル人材」とは何よりも「自分の生まれた国(日本)を正しい母国語(日本語)で正しく語れる人」ではないかと思う。もう少し具体的に言えば,日本の歴史,政治,経済,社会,文化などに日本人としての誇りを持ち,決して偏狭なナショナリズムに陥ることなく,同時にそれらを世界的な視点から客観的に見て日本の良さや悪さ,強みや弱みを認識できる人であろう。30数年間の民間企業勤務時代に海外に3度勤務し,40カ国超の国へ200回を超す業務出張を通して,そこで出会った多くの外国人の中で筆者の感じた「グローバル人材」に共通していることがある。自国を冷静な目で見ている秘めたる愛国心のあるビジネスパーソンや政府の役人である。一方的に所属企業の短期的な損得だけを声高に主張する人とか,一党独裁政権の片棒を担いて国益を理不尽に強弁する人達の中に「グローバル人材」を見たことはない。

 大学で注力する語学教育や海外留学促進策は,「グローバル人材」になるためのコミュニケーションの手段をしっかりしたものにするというものであり,語学力はあくまでも「グローバル人材」の基本的な『必要条件』である。この初歩的な必要条件をTOEIC800点に到達して満たし,ポリシーのない根無し草のコスモポリタンになれたとしても「グローバル人材」にはなりえない。偏狭なナショナリズムに陥ることなく前述の「自国を客観視して,自国の立場をしっかりと理解し,しっかりと語れる」ことが『十分条件』である。多くの人に一目置かれる「グローバル人材」とは,この必要条件と十分条件を同時にバランスよく満たしている人なのである。その上で自国の利益,自社の利益を中長期視点から主張し相手を説得できる論理性と人間性を持った人である。外国語をうまく操り相手国の異文化を表面的に理解しただけでは世界に通用する「グローバル人材」にはなりえないであろう。

 学生諸君が留学から帰国して語る「留学談」での初歩的だが深刻な反省は,この『十分条件』が小学生以来,大学生になるまでスポッと抜けているか極めて不十分だったことに起因しているのである。自国の理解が不十分であるという学生の皆さんに,その象徴的な質問として「日本の国歌を歌えますか」と毎回尋ねることにしている。「自信を持って正しく歌えません」,「子供の時から音として聞いて覚えているのでなんとなく歌えます」,「歌えます。しかし歌詞の意味も作られた歴史的背景もわかりません」という答えが圧倒的である。スポーツの祭典であると同時に国威発揚の場でもあるオリンピックで,日本の選手が金メダルをとれば日章旗の掲揚と国歌斉唱がある。日本の最高教育機関に学ぶ大学生が自国の国歌の意味と背景が良く分からないのである。

 自国を理解できず,国山河を愛せない,生まれた土地に郷土愛を感じない人材から果たして「グローバル人材」が生まれるのであろうか。世界には厳しい過去の歴史を持つ国,現状,戦火で苦しむ国,明るい将来展望を描きにくい国など様々あるが,主義主張に関わらず自国に誇りを持ち,自国を愛せない人材が真の「グローバル人材」になったりするのであろうか。英語が出来て異文化体験をしたら即「グローバル人材」になるわけではない。勤務校で専門科目の国際ビジネスを一部英語で講義をし,専門科目の一コマに「異文化経営の重要性」を講義する筆者として,「国歌を知らない大学生」がどのように国を背負った「グローバル人材」に成長するのか危うく見える今日この頃である。

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