世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
インフレ・ターゲット政策の欠陥
(元野村アセットマネジメント チーフストラテジスト)
2025.07.21
消費者物価の平均値と中央値の乖離
日本銀行のサイトには,「2%の『物価安定の目標』」と題したインフレ・ターゲット政策の狙いを説明する文章があり,その中に以下の記載があります。
物価の安定が大切なのは,それがあらゆる経済活動や国民経済の基盤となるからです。
市場経済においては,個人や企業はモノやサービスの価格を手がかりにして,消費や投資を行うかどうかを決めています。物価が大きく変動すると,個々の価格をシグナルとして個人や企業が判断を行うことが難しくなり,効率的な資源配分が行われなくなります。また,物価の変動は所得配分にゆがみをもたらします。こうした点を踏まえ,日本銀行は,2013年1月に,「物価安定の目標」を消費者物価の前年比上昇率2%と定め,これをできるだけ早期に実現するという約束をしています。
実際の消費者物価の動きを見ると,加重平均値である消費者物価総合指数の前年同月比上昇率は,2022年4月以来2%以上で推移しており,2025年5月には+3.5%でした。一方,消費者物価加重中央値の前年同月比上昇率は,2023年9,10月を除いて2%未満に留まっており,2025年5月には+1.7%でした。2%の「物価安定の目標」をオーバーシュートし続けているのか,それとも未達であるのか,よくわからない状況です。
食料,エネルギーに偏る物価上昇
消費者物価の平均値と中央値の乖離は,コロナ禍後に食料,エネルギーの価格が高騰した一方,それ以外の物価上昇が緩やかなことによります。2020年末を起点にすると,2025年5月までに食料消費者物価は25.9%,エネルギー消費者物価は33.6%上がりました。一方,食料,エネルギー以外の消費者物価は5.4%の上昇に留まっています。
日銀の金融政策運営上は,一部品目の価格変動の影響を受けにくい中央値を重視すべきかもしれません。しかし,家計は一部の品目であっても価格高騰の影響を受け,資源配分がゆがみが生じています。また,2020年末を起点にして2025年5月までに消費者物価総合指数が12.6%上昇したのに対し,現金給与総額の上昇は7.0%に留まっています。賃金上昇が消費者物価の平均値の上昇に追いついていない点では,物価の変動が所得配分にゆがみをもたらしていると言えます。
相対価格の安定が暗黙の前提
食料やエネルギーの国内供給は輸入に依存する所が大きく,食料やエネルギーの価格は,輸入物価の影響を受けやすいと見られます。輸入物価指数は,コロナ禍後の最低水準だった2020年5月を起点にすると,2025年6月には契約通貨ベースで29.1%,円ベースで61.7%上昇しています。輸入物価は海外物価の上昇と円安の両方の影響を受けて上昇したと言えます。輸入物価は2025年6月には前年同月比−11.8%と足元で下落に転じていますが,その影響はまだ食料やエネルギーの国内物価に波及していないようです。
2月24日付の本コラム「円ドル為替レートの行方」で示した円ドル為替レート推計モデルによれば,コロナ禍後の円安は,日米間の金利差,相対物価,相対生産性というこのモデルの説明変数では説明しきれないリスク・プレミアム要因の変動による所が大きいようです。このモデルによる推計値は2025年6月末時点で1米ドル=131.40円であり,144円台であった実際の為替レートとの差の分だけリスク・プレミアムが円安方向に振れていると解釈されます。円の信認低下が輸入物価の上昇に拍車をかけ,食料やエネルギーの価格高騰を通じて,資源・所得配分のゆがみを招いているという姿がうかがわれます。
コロナ禍後に生じた資源・所得配分のゆがみを是正するためには,円高などによる食料とエネルギーの価格の大幅下落が望まれます。ただ,その場合,食料とエネルギーの消費者物価上昇率はマイナスに転じて,その影響が徐々に波及してその他の消費者物価の上昇率も下がり,消費者物価の平均値も中央値も前年同月比2%を大きく下回る上昇率になるでしょう。裏を返せば,2%の「物価安定の目標」の早期実現を目指しつつ資源・所得配分のゆがみを是正することは,極めて困難と言えます。インフレ・ターゲット政策は,現状では資源・所得配分のゆがみの是正に対して妨げになりかねません。
インフレ・ターゲット政策は,各品目間の相対価格に大きな変動がないことが暗黙の前提となっているようです。外的ショックや構造変化などによって相対価格の変動が継続的に生じている現実の経済においては,機能不全に陥りやすいという欠陥があるのではないでしょうか。
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