世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
原発処理水海洋放出によって「離中・脱日」は加速するか?
(多摩大学 客員教授)
2023.09.04
8月24日,日本政府は福島第一原発のALPS処理水の海洋放出を開始した。この処置の安全性については多々議論があるが,猛反発したのが中国政府であり,間髪を入れず,同日付けで日本からの全水産物の輸入禁止に踏み切った。これを機に,観光シーズンでもある中秋節の中国人観光客の訪日キャンセルも相次いでいる。
中国政府の厳しい対応や国民の反発理由は3つある。まず,処理水海洋放出実施が,日米韓三か国のキャンプデービッドでのサミット直後に行われたことである。このサミットでは重要・新興技術協力やサプライチェーンの強靭化を含む経済安全保障分野等における連携強化が謳われたがその目指すところはアメリカ主導の対中封じ込めである。また,三か国首脳会談では処理水の海洋放出も話題に出たに相違なく,バイデン大統領はこれを是としたのだろう。その意味,中国政府の対応は,ますます米国寄りになる日本政府に対する外交的な揺さぶり,警告であると見ることができる。
次に,今回の日本政府の措置について,中国政府は従前から蒸気放出を推奨していた。日本と一衣帯水にある中国としては,海を通じて放射性物質によって汚染された可能性のある物質が流れ込むのは当然歓迎されるものではない。日本の国土内で処理してもらうのがベストだ。ただ,蒸気放出は,ALPS処理と希釈水の海洋放出に比べ10倍程度の費用となる。中国政府が問題にしているのは,風評被害対策費として800億円の予算が計上されたことだ。これだけのお金があれば蒸気放出に関わる費用を十分まかなうことができる。これはまさに海洋放出「ありき」であり,同時に安全性に十全の自信をもっていない証左ではないかというわけだ。しかも隣国である中国に対する十分な事前説明もなしに海洋放出に踏み切ったのは中国政府の面子をつぶすものでもある。中国メディアは日本政府の今回措置を「掩耳盗鈴」という成語で酷評している。
第三に,中国人消費者の食の安全に対する関心が極めて高くなっていることに加え,日本産食品や日本製の様々な製品に対する庶民の反発がある。水産物に限らず日本から輸入された生鮮食品は概して高価であり,一般庶民の手には届きにくい。北京の麦子店にある「築地直送」を売りにする寿司店の場合,昼の定食でも最低150元である。また,日本酒,ウイスキーの価格は日本人から見ても法外である。ゼロコロナ政策による収入減や不動産価格の下落により中国の消費者の財布の紐は固くなっている。そうした中,一本1万元を超える日本製ウイスキーをやすやすと購入し,一貫100元の寿司をほおばる消費者への反感は決して無視できるものではない。
日本産飲食品に対する規制は処理水海洋放出前から行われていた。国内3億社を対象とした企業情報サービスの天眼査によれば,今年3月,成都市の輸入業者が福島県産の日本酒「大七」を輸入し1本7,200元という高値で販売していたことが市場管理監督局によって摘発された。放射能汚染地区で製造された飲料の輸入販売で暴利をむさぼったというのがその理由である。同じく3月には,仏山市の業者が,長野県の白桃飲料,オリヒロの蒟蒻製品,新潟県産の豆乳製品を安全検査なしで販売したとして営業停止処分を受けた。さらに,青島の輸入業者は,サントリーのウイスキー「白州」を一本15,200元で販売したとして罰金を徴収された。
日本製化粧品の売り上げも減少傾向にあった。海関総局によれば日本製化粧品の輸入は,今年5月から減少傾向と見せ始め,6月には前年同月比8.4%,7月には30%を超える減少となった。日本ブランドだからと,値段も見ずに高級化粧品を購入していた消費者の態度も景気回復の先行きが不透明な中,慎重さが目立つようになっている。
今回の中国政府の対応は,中国の消費者の「脱日」を加速する可能性がある。二期目以降の習近平政権の下で国産ブランドへの指向が強まっているという事情もある。いわゆる「国潮」である。この理由は中国製品の品質・性能・デザインの急速な改善と向上である。ファーストファッションのSHEIN(広東省)のブランド価値はナイキについで世界二位であり,ユニクロ(同五位)を凌ぐ。白物家電ではハイアール(山東省青島市)が14年連続で世界トップシェアを維持している。粉飾決算で一時問題を起こした珈琲ショップチェーンの瑞幸珈琲の中国内店舗数はスターバックスを上回っている。国産製品やブランドに自信を持った中国の消費者が「脱日」に向かうのは自然の流れであり,処理水海洋放出によって生まれた日本産製品の安全性に対する懸念は,この流れに棹をさすものだろう。
一方,日本企業の「離中」の動きも目立つ。帝国データバンクによれば,2022年6月時点の在華日本企業数は12,706社であり,2020年に比べ940社減少した。最も日本企業が多かった2012年の14,394社から見れば約1,700社の減少である。人件費の上昇,米中関係悪化に伴う地政学的リスクの高まり,コロナ禍での業績悪化といった要因もあろうが,最も大きな理由は,中国企業との競争激化であると思う。一言でいえば「敗北」である。
今年に入って,大手日本企業の撤退も目立つ。2月,ソニーはカメラの生産ラインのタイへの移転を決めた。同月,パナソニックは,大連の空調・冷蔵事業からの撤退を発表し,6月には沈陽市での蓄電池生産事業を終えた,この事業は29年の歴史を持つ。また,7月に入ると,昨年から生産低迷に落ち込んでいた三菱自動車がついに生産停止を公式に発表した。中国の日系自動車メーカーは急速なEV化の進展に加え苛烈な価格競争が行われるなか軒並み売り上げを落としている。中国乗用車連合会によれば今年上半期の販売台数は,トヨタが前年同引き2.8%減の87.9万台,ホンダが同じく22%減の52.9万台,日産が29.4%減の35.9万台,マツダが49.4%の3.2万台である。広州トヨタはすでに千人の人員削減を発表している。次に「離中」するのはマツダではとの噂も現地では根強い。
中国ビジネスには厳しい逆風が吹いている。しかし改革開放以来中国の発展に大いに貢献したのは日本企業でもあるし,日本企業に対する中国の消費者の認知度と信頼は依然高い。減少したとはいえ依然1万社を超える日本企業が3万以上の事業拠点を維持している。中国事業を「生命線」とする企業も少なくない。逆風に打ち勝つ「勁草」となるべく中国事業戦略の前向きな再構築が必要であるし,日本政府も「米国一辺倒」がもたらすリスクにも留意すべきである。
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