世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
2023年5月14日タイ総選挙―国民の選択
(神奈川大学 名誉教授)
2023.06.26
タイでは国会議員任期が満了となり,5月14日に選挙が行われた。今回の選挙は2005年から続いてきた民主化潰しの潮流が反転する契機となる可能性が出てきたように思われる。昨年5月,9年ぶりに行われたバンコク都知事選におけるタイ貢献党と関係の深いチャット・チャートの大勝はタイにおける政治的な言説空間(ディスクール)の変化を物語っていた。今回の選挙における前進党(新未来党解党による後継政党,躍進党とも訳される)の勝利はさらなる言説空間の変容を確認するものであった。タイ民主化における選挙結果の意味を考えてみた。
前進党の躍進
総選挙における下院定数500議席のうち主要政党の獲得議席は,前進党151議席,タイ貢献党141議席,タイ誇り党71議席,現政権党の国民国家の力党40議席,プラユット首相の新党,タイ団結国家建設党が36議席,民主党が25議席であった。この議席数は6月19日に選管によって正式に承認され確定した。現野党である「民主派」諸政党への国民の支持が示された。
今回の選挙で最も注目されるのは前進党の勝利である。党の政策として,従来タブーであった君主制改革に踏み込み,不敬罪の改正を掲げた。軍制改革では徴兵制廃止や軍の権限縮小を訴えた。タイ政治経済の構造改革を議論の俎上に載せ,徹底した改革を訴え勝利した。
タイ貢献党は当初圧勝が伝えられ過半数を獲得するとの選挙予想が主流であった。一方,前進党の予想獲得議席は前回の獲得議席81議席を大きく割り込み,50から60議席にとどまるとの分析が多かった。理由は選挙制度の改正により,全国規模で政党を選ぶ比例区の議員定員が150議席から100議席に減少し,2019年の選挙結果をみると,地方の小選挙区では地方ボスが強固な票田を形成しているため,小選挙区で第1位となり勝利することはかなり困難であるとの分析があった。前回の総選挙の新未来党獲得81議席のうち,55議席は比例区での議席であり,小選挙区はバンコクなど都市部での26議席にとどまっていた。前回の比例区の得票率を今回の選挙制度に当てはめると,比例区の議席は55議席から17議席に激減する。小選挙区の議席が伸びなければ,同率の獲得投票率では43議席となる。しかし,前進党は今回151議席(小選挙区112議席,比例区39議席)を獲得した。選挙制度が異なるため単純には比較できないが,政党別の投票で比例区の有効投票数は前回17.8%,633万票であったが,今回の選挙では38.5%1444万票を獲得している。2位のタイ貢献党を348万票上回る国民からの支持を受けた。選挙結果を受け,前進党は,タイ貢献党141議席,国民国家党9議席,タイ建国党6議席など8政党と連携し,過半数を大きく上回る312議席の連立で自らを中核とする政権樹立を目指している。
前進党の勝因,地方ボス(チャオ・ポー)政治の終焉の兆し
今回の前進党の勝因は何であろうか。今回の選挙でみられた大きな変化の一つは,古参議員の敗北である。新人の議員は237人が当選し,その比率は47.4%となった。現役の代議士の多くが当選できなかった。その多くは従来型選挙システムである地方ボス(チャオ・ポー)の政治に票田を依存する政治家であった。地方ボス政治とはフア・カネーンと呼ばれる集票人に多額の資源(多くの場合は金銭)を渡し冠婚葬祭などに気を配りながらパトロン・クライアント(ラボップ・ウパタム)関係によって集票するシステムである。選挙時には銃弾と呼ばれる現金も配られる。このような地方ボスによる政治勢力をタイではバーン・ヤイ(大きな家)と呼んでいる。今回の選挙でもバーン・ヤイはブリーラム県,カムペーンペット県,スパンブリー県,パヤオ県の小選挙区では議席を独占した。タクシン系のタイ貢献党もいまだこのシステムに頼っている部分も大きい。バーン・ヤイに選挙基盤を依存する代表的な政党であるタイ誇り党を例に今回の選挙をみてみよう。タイ誇り党は今回の選挙でも前回の51議席から71議席へ躍進した。この党は地盤のある地方議員を大金で引き抜き勢力を拡大する戦略をとっている。今回の選挙でも3000万バーツ(1バーツは約4円)とも5000万バーツとも言われる移籍料で有力議員を引き入れたと噂されている。タイ誇り党の小選挙区の得票は513万票,比例区は114万票である。しかも特定地域の小選挙区で多くの票を集め,少ない票で多くの議席をとっている。前進党の小選挙区の獲得議席は967万票で112議席であるが,タイ誇り党は513万票で68議席を獲得している。一方比例区をみると,前進党は1443万票で39議席,タイ誇り党は114万票で3議席を獲得したに過ぎない。ブリーラム県はタイ誇り党の地盤であり,この県では10選挙区すべてで勝利した。小選挙区の得票率ではタイ誇り党が48%,前進党が22.7%,タイ貢献党が21.7%であった。しかし,比例区の得票では前進党が32.6%,タイ貢献党が28.9%,タイ誇り党が20.1%となっている。地縁はまだ切れていないが,前進党の改革に期待しているので,多くの有権者が比例区では前進党に入れたいということであろうか。農村部の政治意識の変化が進んでいるように感じられる。今後の選挙では農村部もバンコクと同様に小選挙区でも前進党のようなタイ社会の構造改革を党是に掲げる政党が当選する割合が次第に高まると思われる。
前進党政権への障害
前進党は徴兵制廃止,刑法112条不敬罪改正などタイ社会の構造改革を掲げ,改革を望む国民の支持を拡大した。しかし,2014年のクーデターで政権を奪取した保守派にとっては,その革新性ゆえに,最も唾棄すべき政党であり,前回の新未来党解党や党首タナートーン議員資格はく奪のような,法正義に反する牽強付会判決で民主派を押さえつける可能性は否定できない。ただ,タイ国民,特に政治に強い影響力を及ぼすバンコク都民の言説空間が既得権益擁護から改革志向へ大きく舵を切っているので,保守層が従来のような強権を行使するうえでのハードルは従来に比して高くなっている。民主派の議員は,今ほど軍を含めた保守派が弱体化している状況は近年にはないと言っている。総選挙の選挙制度をめぐって2022年11月30日大きな出来事があった。憲法裁判所が与党に不利な選挙制度の裁定を下したのである。与党にここまで不利な判決は2006年のクーデター以降では初めてで,政府にとっては青天の霹靂であったと思われる。この憲法裁判所の判断は保守派が国民の言説空間に配慮することを暗示しているようにもみられる。
前進党が政権を樹立するうえで2つの大きな障害がある。一つ目は,2017年現行憲法では下院500名とクーデターによって任命された上院250名が首相選挙権をもっており,376名の票が必要である。民主派8政党連合の議席は312議席で連立外の下院と250名の上院から64名以上の支持をとりつける必要がある。上院の任期は5年と憲法に規定され,その任期は2024年5月11日までである。任期が切れれば首相指名は下院のみで可能となるため,民主派はそこまで延ばす戦略も確率は低いが可能である。二番目に,前進党党首のピターは憲法が禁じるマスコミのITV社の株式を所有していると,保守派のアクティビストが選挙管理委員会に訴えており,失職する可能性がある。新未来党党首タナートーンは同様のマスコミ株式問題で2019年11月の憲法裁判所の判決(7対2)によって議員を失職している。
2017年憲法はマスコミ株式所有者の議員立候補を禁じており「新聞またはいずれかのマスコミ事業の所有者であるか株式保有者である」と98条(3)で規定している。問題となっているピター党首のITVの株式は2007年ピターの父が亡くなり,相続財産としてピター,ピターの兄弟と母親に残された株式の一部である。株式数も4万2000株と少数である。ピターは相続財産管理人となっており,相続財産管理人を株主であると認定するなら,立候補資格に疑問符がつく。しかし,タイの民法では相続財産管理人は株主でないとの判例が定着している。ITVをマスコミ関連株式と認定するのも現実的ではない。ITVはタイ商業銀行の傘下であったが,2000年にタクシン系の会社の傘下となり,2007年3月政府に放送権を取り消された。以降事業は行えず2014年上場廃止となっているが,法人は存続している。ITVの現在の所有者はINTUCH社であり,その親会社は電力などエネルギー関連産業で財を成したタイで最も富裕な人物とされるサーラット・ラタナーワディーのGULF社である。政権与党タイ誇り党の党首アヌティンのシノタイ社はGULFの株式を所有しており,関係が深いとされ,プラユット首相とも近いとされる。
このITVとピターの株式所有をめぐり興味深い出来事があった。ITVは5月10日に2022年決算書を提出した。前年までの決算書には係争中の裁判があり,事業は何も行っていないとの記載であったが,2022年度の決算書には定款に従いマスコミ広告の事業を営んでいるとの記載に変更された。しかし,4月26日ITVの株主総会のインターネット総会の録音では社長が「訴訟中で業務は行っていない」と答えている。株主総会の議事録では「会社の目的に従って会社は通常の営業しており,決算に従い税金を払っている」と矛盾した記載になったことが,6月11日,3チャンネルのニュース番組「サームミティ(三次元)」で伝えられた。つまり,議事録が何者かによって事後的に書き換えられ,ITV社がマスコミ活動を行うマスコミ関連株であるとして,ピターによる首相指名を阻む工作があったことが明らかになった。GULF社の独占が,国民を直撃している電気料金高騰の遠因であるとの分析もあり,ピターの首相就任への待望論を高める結果となった。
言説空間の変化
国民の大多数がポピュリズム政策を掲げる政党よりも,国内構造改革を党是とする民主的な政党への絶大な支持を与えている現状をみると,支配者層が既得権益を維持するため,超法規的ともいえる独立機関(選管や憲法裁など)を使っての強権発動は今まで以上に厳しい社会対立をもたらすであろう。軍に任命された上院250名は不敬罪改正などを理由にピター党首の首相指名に反対している議員も多い。しかし前進党とタイ貢献党など連立8党の国民の支持は72.3%に達している。首相指名は公開投票で誰が否定したかが明らかになるため,軍事政権により任命された上院が否定投票をすることは,今現在の世論を考えると,それなりの覚悟が必要となると思われる。今回の選挙をみると,タイにおける民主主義をめぐる言説空間の変容がタイ社会を新たな方向へ導き始めたようにみえる。保守派によるクーデター,前進党解党やピター党首の公民権停止のような荒業がなければ,タイ社会が民主化へ歩みだす可能性が高いと考えている。中国やビルマの現政権は前進党政権に否定的な考えをもっていると伝えられている。今回の選挙によってタイの民主化が進めば,アジアの反民主主義の流れを止めることになるのかもしれない,と期待している。
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