世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
団塊世代が孫に伝える体験的近現代日米政治経済史
(関西学院大学 フェロー)
2023.01.16
筆者は嘗て,「米国社会で起った事は,20年後,日本社会でも必ず起る」と主張したことがある。その理由は次の3点であった。
第1は,米日両国経済発展のタイムラグ。第二次大戦で,欧州とアジアが灰燼に帰す中,自国が戦場にならなかった米国は,銃後の経済の立場を満喫した。前戦への武器供給のため,軍事産業は活況を呈し,生産従事者に支払われた所得は,国内に十二分な消費財が無く,ペント・アップ需要化した。そうした状況で迎えた戦後,米国企業は世界に競争相手がいない一人勝ちの状態にあり,国内では所得を手にした中産階級が勃興し,そのマーケットを見据えて消費財産業が一気に伸びた。マイホームを持つというアメリカンドリームが花開き,郊外の新築の家には,電化製品があふれかえった。米国社会は,異質な層の集合体だったが,強い経済力を背景に,農民・都市労働者・中小企業家・大企業経営者など,あらゆる層の人たちが,自由貿易を信奉するようになっていた。そんな米国経済のピークは,戦後20年経った1960年代半ばにやってくる。ケネディー大統領の「国が自分たちに何をしてくれるかより,自分たちが国に何を貢献できるか」を問うべきだとの演説は,こんな社会風土から生まれてきた。それは亦,リベラル全盛の時代でもあった。
その頃,太平洋を挟んだ日本では,戦後の荒廃から漸く立ち上がり,自由主義陣営の国々に開放された米国市場への輸出増大を梃子に,輸出と投資の二本立てによる工業化路線を本格始動させ始めていた。1964年の東京オリンピックは,そんな日本の高成長のスタートを象徴するものとなった。この間,米国に遅れること20年だった。
第2は,ピークが来れば必ず波動は反転するという事実だ。1960年代央以降,戦後からの復興を遂げ始めた日本や西ドイツなどとの競争が激化,米国経済の成長は減速し始め,貿易収支が次第に赤字化するようになる。国際政治面でも,民主党政権下で深入りしたベトナム戦争が泥沼化し,国内社会は分断の様相を呈し始める。経済効率は低下し,社会秩序も乱れ始める。そんな中,70年代に入ると,共和党ニクソン大統領が登場する。スローガンの一つが「法と秩序の信奉」だった。だが,経済減速の波は止まらず,ニクソン時代には,金とドルとの交換停止と,それに続くドルの大幅切り下げが発生する。国内社会の閉塞感を解き放すため,米ソ緊張緩和や中国の国家承認などへの道も開かれた。しかし,そんなニクソンの独走的・強権的な姿勢は,ウオーターゲート事件というスキャンダルを産み出し,1976年大統領選挙で,ワシントン・アウトサイダーを標榜する,民主党カーター大統領の選出に繋がる。カーターは大統領就任演説で次のように述べた。「米国のような偉大な国でも,出来ることには限りがある・・・」。
米国経済の低迷は,20年後の1980年代央まで続いた。1980年大統領選挙で,民主党現職のカーターを破った共和党のレーガンは,大統領就任直前,次のような主張をWSJ紙に投稿した。「米国経済を慢性的に駄目にした原因,それは恣意的な財政・金融政策と蜘蛛の巣の如く張り巡らされた政府規制だ・・・自分は大統領として,この方向を変えてみせる・・・統治する者が,統治される者よりも賢いなどと,誰が決めたのか・・・。政府は問題解決の手段などではなく,むしろ問題の種なのだ」。そのレーガンは,大統領就任演説で,「米国のような偉大な国では,意志があれば必ず目的は果たされる」旨の演説を行なった。20数年後,リーマンショック直後の大統領選挙で,民主党のオバマ大統領候補が唱え続けた“Yes We Can”と同趣旨の,国民を鼓舞するスローガンだった。
一方,米国が,歳出削減・減税・規制緩和・誰にでも予測可能な金融政策という,いわゆるレーガノミクスの発動で,皮肉にも,戦後最大の不況に見舞われた1980年初頭,太平洋を挟んだ日本では,速度こそ減速したものの,依然続いた高成長下,製造業投資は活況だった。不況下,急減した国内需要にマッチするまで,米国企業が生産能力を大幅に削減する中,日本の製造業は生産能力を倍加させていたのだ。
かくて,米国経済が1981年に至り,漸く不況を脱出し,国内需要が急回復する中,国内の供給能力に余裕がない,そんな状況が生まれる。その間隙を縫って,日本からの輸出が易々と米国市場を席巻した。結果は,日本の対米貿易黒字の累増であり,日米通商摩擦の激化だった。言い換えると,1980年代央には,米国経済の競争力が低下する中,日本経済のピークがやってきていたのだ。この時点で,日米経済が攻守を替えてから,やはり20年が経っていた。米国の世論調査などで,「ソ連の軍事力と,日本の経済力,どちらが脅威か」との質問に,「日本の経済力」との答えが多くなった時代だった。
第3の理由は,競技は何時までも,同じ土俵で争われるもの,との思い込みだった。だから2000年央,米国が自国発の金融・経済危機(リーマン・ショック)で危機に陥ったとき,筆者は,それが起点になって日本が再び台頭する,と考えてしまったのだ。
しかし,1980年代央から2000年央に,実際に起っていたのは,全く違う事態だった。レーガン政権の新経済政策とプラザ合意(いずれも1985年)で,対米輸出への歯止めをかけられ,亦,円の大幅切り上げを余技なくされた日本は,国内経済支援のために財政を大幅に拡大させた。しかし,この措置は,円価の上昇等によって大量に流入した外資とも相俟って,結果,国内に過剰流動性を発生させ,且つ,その過剰化した流動性の不胎化にも失敗,遂には,バブルを惹起してしまう。そして,そのバブル対策の末,今度は経済を冷やし過ぎ,その後はご承知の失われた10年,次いで20年,そして今や30年と言われる,一人当たり実質GDP成長ほぼゼロの時代が続くようになる。
この間,米国,延いては先進諸国の経済は,製造業から金融・サービスの時代へと様変わりしていた。つまり,80年代には,製造業分野だけで勝負が決まっていたのが,2000年央には,金融サービス分野での勝敗が第一の決め手となっていたのだ。更に,日本経済自体も,プラザ合意以降,金融・製造両分野共に,米国経済との一体化の度合いを増し,且つ,製造業も市場近接地での生産という名目で海外生産比率を高め続けていた。
そんな中での,米国発の金融・経済ショックの発生だった。言い換えると,1980年代央に底を打った米国経済は,やはり20年後の2008年前後に,ピークから下降への転換を迎えたのだが,筆者説の,「今度も亦,この機に,日本経済が上昇に転じうる」,そんなシナリオは実現しなかった。繰り返せば,グローバル化の流れの中,日米両国経済の好不調が同一循環サイクルで動くようになってしまっていたからだ。
今回,1980年代の日本と同じような立ち位置にいたのは,中国だった。中国は国内に巨大な市場を有し,一方,金融部門のグローバル化は遅れていた。だから,外からの金融ショックには耐性を保持していたし,実際に米国発の金融・経済危機が発生したとき,製造業にとって大切な国内市場を,国外経済から遮断する一方,国内向けに財政の大幅支出を行ない,経済が不況に突入する危機を回避できた。
結果,中国経済の高成長は続き,数年後には,近い将来,経済規模での米中逆転すら語られるようになっていく。別の観点から言えば,嘗ての世界第2位の製造大国日本は,もうそこには存在していなかった。直近の米中対立の激化は,この時の経済の,下りと上りのすれ違いから端を発している。
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